連載小説 「異土に焦がれて」 21 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

 ロロザが扱っているのはほとんどが第二次大戦後の現代画家で、啓には知らない名前が多

かった。版画を売るために商品知識を身につけなければならなかった。

「カシニョールを除いてぜんぶ抽象画ですね。戦後の絵画はなぜ抽象画ばっかりなんでしょう。精

神の傾向が抽象的というか数学的なんですかね? フランス人は」

「フランスで活躍している画家はフランス人とは限らんよ。外国生まれの画家のほうが多い。エ

コール・ド・パリのもっと前からフランスの画家には外国生まれが多いだろ。ピカソ、ミロ、ダリはス

ペイン、カタロニアだ。ピサロは南米生まれのユダヤ人だし、シスレーは両親とも英国人。モジリ

アニはイタリーだし、藤田は日本人。スーチンはロシア、シャガールもロシア、ソーニャ・ドロネー

も、カンディンスキーもロシアだね」

 ドロネー、ダ・シルバ、スラージュ、などという名前がロロザの口をついて出た。さらに、フォート

リエ、アルチンスキー、アルトウングなどの名前も出た。

 第二次大戦後は美術の中心がパリからニューヨークへ移った。それでも、パリにはモンドリアン

の幾何学的抽象に反対し、リリカル・アブストラクト(抒情的抽象)と呼ばれる運動が生まれた。形

象を人間の本能に近い自然なものにしている。ダ・シルバとアルトウングが代表だ。ふたりの画風

は<タッシスム>と呼ばれている。タッシュ(沁み)が語源 だ。ロロザは先生の様な口調で続け

た。

「タッシスムは人間のプリミテイヴな形象への愛着を筆のタッチやエアー・ブラシの跡を故意に残

して表現する手法だ。アメリカにサム・フランシスがいる。見たことがあるだろ。東洋人には、ザ・

ウー・キーがいるじゃないか」

「はあ。ザ・ウー・キーは好きですよ」

 画廊に画集やカタログが置いてあった。ロロザは、それらの本を指して言った。

「版画を売るには画家について勉強しないとな。ここにある本を自由に持ち出していい。ただし必

ず返してくれるように。解らないことや、もっと知りたいことがあったら、いつでも、遠慮せず私に訊

くように……」

 こんな風にロロザは、啓に現代絵画の知識を授けてくれた。啓はアルバイトからロロザに近づ

き、知らぬうちにロロザに弟子入りして画商の修業を始めたような気持ちだった。 次の日から啓

は、黒い大判のポートフォリオを提げパリの街を歩き回った。シャンゼリゼ、オペラ通り、リヴォリ通

り……。主に日系企業の渉外や総務や時には所長に電話を入れアポをとって事務所を訪問し

た。黒いビニール製のポートフォリオは華やかなパリの街並みにそぐわず、持ち運んでいる啓自

身にとりわけ怪異な印象を与えたが、それも三日目からはこんなことに恥じらいを覚えるようでは

金は稼げないと戒め、気にせずに歩くようにした。一週間もするとその感覚も薄らぎポートフォリオ

にも慣れた。版画は合紙もいれ二十枚も運ぶと結構な重さになり、片手で提げるポートフォリオの

底が地面を引きずりそうになるのに閉口した。

 セールスには舞台の独り芝居やパフォーマンスの面白みに似たところがあり、セリフをいろいろ

工夫して客をこちらのペースに引きこんで買う気を起こさせる楽しみがあった。 「レセプションは

会社の顔ですので、やはり壁面を絵で飾られると引き立ってよろしいですよね。会社のイメージに

合った絵をお選びになり、額装すると、ぐっと雰囲気が出てお客様にも喜んでいただけるんじゃな

いでしょうか」

「同じ絵でも現代絵画となればセンスの良さ、教養の高さが窺えて、フランス人のお客さんにア

ピールする力がぐっと違ってきますよ」

 ここぞという時に決断を促し、しかも良い買い物をしたと客に思わせるセリフを吐くことが大事な

のだと夜、床についてからもあれこれ言葉を探し手順を考えた。

 日系企業の駐在員の中には日本人の啓に親近感を寄せ、値段を聞いて、その程度なら、予算

にも簡単に組み込めるから来月になったら来てくれとか、額装と飾りつけのサービス込みでその

値段にしてくれとか、いろいろ注文をつけながら、やはり会社の顔としてフランス人に受けの良い

現代絵画で飾りたいと買ってくれる人も現れてきた。



  (つづく)

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