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版画を売り歩くのに疲れると啓はよくパレ・ロワイヤルの近くにあるアーケードの中の画材屋を
覗きに行った。日本を出る直前まで勤めていた画材屋のことを思い出し、昔の職場を懐かしみな
がら、色とりどりのパステルや絵具、さまざまな画材や紙の類を眺めていると心が和んだ。
地面を摺るように提げている黒いポートフォリオに眼を止めたのか、啓が何度目かにその画材屋
に入った時、若くて小柄な顔立ちのすっきりとした女店員が微笑み掛けてきた。彼女はスリムな
身体つきで、金髪の頭を短く刈り、敏捷な動作にも優雅さが感じられて、啓は印象づけられた。
普通、フランス人の店員は客に対して無愛想で何も言わず、良くて「こんにちは」を言う程度な
のだが、彼女は「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と英語で訊いてきたので啓はひどく惹きつけられた
のだった。
「日本にいた頃、画材屋で働いてたものですから。懐かしくって、ときどき眺めに来てるんです」
啓は照れ隠しに言った。すると彼女はすっきりした笑顔で答えた。
「わたしも版画をやってるわ」
仲間が見つかって嬉しいという表情が現れていた。
「でも、これは商売道具。版画を売り歩いてるんです」
啓は黒いポートフォリオを少し持ち上げて彼女に見せながら言った。
「ああ。画廊にお勤めなのね」
彼女は青い水晶のように澄んだ眼をきらきら輝かせながら啓に笑顔を向けて言った。その笑顔
は視野をぱっと明るくし、啓は顔の皮膚に温かみを感じたほどだった。
彼女とそんな会話を交わした場所は水彩コーナーだった。啓はその日、パリに着いたばかりで
描いたサンジェルマン・デプレのスケッチに色を塗りたくなって水彩コーナーを見ていたのだった。
ヨーロッパ製の絵具は店員の彼女の方が良く知っている。版画を売った報酬を少し持っていた啓
は、彼女に水彩画用紙と絵具と筆を選んでもらった。啓の予算を訊いて彼女が勧めたのは、水彩
画用紙は英国製のデイラー・ローネイ、絵具も英国のウィンザー・ニュートンで、パレット付きの箱
に十二本のチューブが入っていた。筆は、彼女が品質により描き味が全然違うので、最初から優
れものを持った方が良いと勧め、少し高かったが、レンブラントの貂の四号、六号、八号の三本を
買った。
(つづく)