「行ってみなさい。きっと、いいことがあるから。この画廊はね。ムッシュウ・タヴェルのお友達が
経営してるの」
秘書のマダムは四角い眼鏡の奥で灰色の眼の縁に皺を寄せ、四角い口で微笑んだ。
その画廊は展示室が無く事務所だけの一風変わったもので、画廊というより美術品売買のコン
サルタントが、かたわら絵の売買もやっているといった風な会社だった。
「絵に興味をもってる日本人をジョルジュに頼んだんだ。絵に興味があるな。どうだ、セールスを
やってみないかね。このところ日本企業が沢山パリに進出してる。彼らは金持ちだからな。手始
めに版画を売ってみないか? 売上の二割がキミへの報酬だよ」
ロロザは青みがかったグレーの背広のボタンを外し、部厚い胸を露わにし、ソファーに広い背を
凭せかけると啓にぎょろっと飛び出た青い両眼を向けた。顔全体がラグビーボールのように凸型
で、長い鼻の下がボールの皮を貼り付けたみたいで愛嬌がある。
「現代絵画について、どのぐらい知ってるかね?」
その日ロロザは時間に余裕があったのか啓と現代絵画について話してくれた。
「知ってる画家の名前をあげてごらん」
「パウル・クレー、モンドリアン、カンディンスキー、……ピカソ、ミロ、ダリ、キリコ、マックス・エル
ンスト、ルネ・マグリット、マルセル・デユシャン……」
啓は思い出しながら知っているかぎりの名前を挙げた。
「なかなかよく知ってるじゃないか。抽象画、立体派、シュールレアリスト、それに表現派、未来派
と、いったところだね。実際の作品を見たのは?」
「カンディンスキーとミロを東京で見たことがあります。それと、いつだったか、現代イタリア彫刻展
というのが東京に来ました。マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズーと、ルチオ・フォンタナは良かった
ですね。フォンタナの彫刻は空間的というか宇宙的な概念が感じられ感動しました。そのとき初め
て現代絵画を見た気がしました」
「フォンタナは私と同じアルゼンチンの出身だよ」
「ええっ? イタリーじゃないんですか?」
「両親ともイタリー出身のアルゼンチン移民だ。ルチオが生まれたのはブエノス・アイレスに近い
サンタフェというところだ。もっとも若い頃、絵の勉強にイタリーに行ったり後でミラノに移住してる
がね」
啓はセールスは向いていないと思っていたが、ミニコミ新聞の翻訳では暮らしてゆけず、パリで
暮らしてゆくにはなんでも挑戦してみなければと思い直した。絵は好きだし、版画なら値が手頃な
ので売りやすいだろうと思った。
(つづく)