フランスを二つに区切る線が引かれた。スペインとの国境ピレネー山中のサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを始点として、アングレーム、ポワチエ、トウール、ブルジュ、ムラン、シャロン・シュル・ソーヌ、ドール、ナンチュア、スイスのジュネーヴまで。このラインから北が占領地区で南が自由地区。
24ある条項の主なものは:
「フランス政府はパリに戻れるが、首都は占領されたままである」
「占領地区ではドイツ帝国は占領者として権力を行使する」
「フランス政府は、フランスの行政機関に、占領地域のドイツの権力の規則に従い、正しいやり方で協力し(共に働く)よう奨励する」
「フランス領土内のドイツ占領軍の維持費はフランス政府の負担とする」
フランス本土の北側にはおびただしい数のフランス兵が捕虜となっていた。全戦闘員の数が185万人で、その半数、約92万人が、工場や学校、牧場など鉄条網で囲まれた野原で野宿していた。停戦協定の第20条には「捕虜は平和条約が締結されるまでは捕虜として留まる」と規定されていた。
停戦協定発効(6月25日)に3日先立つ28日、アドルフ・ヒトラーは早朝5時30分に、ブルジェ空港に降り立った。
お気に入りの建築家アルベール・スピールが随行していた。
「ベルリンは大都市だがメトロポリスではない。パリを見よ。世界一美しい街だ」
この2週間前の6月14日、フランスの将軍ウエイガンの判断により、ドイツ軍はパリへ無血入城した。
「回復不能の破壊とパリ市民の無用な虐殺を避けるため」
パリは(敵に)開かれた街、すなわち無防備都市と宣言された。
ヒトラーはパリを破壊すべきか迷っていたらしい。破壊するとしても、その前に建築家に見せ自分の眼で見ておきたい。
「ベルリンをパリ以上の世界一美しい街にする」のがヒトラーが描いていた夢だった。周知のことだが、ヒトラーは若い頃画家を志した。近年、2枚の絵が公開されたが、出来の悪い冷たいだけのつまらない絵だ。
3台のメルセデスがブルジェ飛行場に待機していた。長靴、手袋、黒の革の外套で身を包んだ総統はいつものように助手席に座ると「オペラ」へ行くよう命じた。
ネオクラシック、ネオバロックのガルニエ・オペラをヒトラーは秘かに愛していたらしい。内部の細々したところまで良く知っていてお付きの人を引き回し先頭に立って見学した。なんでも、この建物はアーリア民族の天才性を証明する優れた建築物だというらしい。
オペラの次にマドレーヌ、コンコルド広場、シャンゼリゼ、凱旋門、シャイヨー宮、エッフェル塔、アンヴァリッドではナポレオンの棺の前で長い間瞑想した。
パンテオン。最後にグラン・ブルバール。サクレ・クールは気に入らなかった。ノートルダム大聖堂にも無関心だった。
パリ見学は3時間で終わった。帰りの飛行機の中で、ヒトラーはこう漏らした。
「パリを訪問するのが私の夢だった。今日、その夢が実現できて、どれほど幸福なことか」
そして、建築家スピールに命じた。
6月25日(停戦協約発効の日)に遡って政令を出し、「ベルリンの建設」を全力で再開するように」と。さらにこう付けくわえた。
「パリは美しかったよな。しかし、ベルリンはもっと、ずっと美しくならねばならない」
シャンゼリゼの2倍長い、ベルリン・シャンゼリゼを計画するよう命じた。
ヒトラーはパリを訪問したことで、いつもと違った謙遜さを見せた。凱旋門からコンコルド広場までの戦勝大行進が記念式典に計画されていた。ヒトラーは、それをとりやめる決断をした。第一に戦争はまだ終わっていない。フランスの西側と英国が残っている。そして、さらに驚くべき発言をした。
「私は、かつて度々、パリを破壊すべきではないかと自問してきた。だが、ベルリン建設が終われば、パリはベルリンの影でしかなくなる。ならば、どうしてパリを破壊するんだ? 」
ワルシャワは完全に破壊された。劣等民族であるユダヤ人とスラブ人が建てた街は破壊に相応しいと考えたそうだ。
「パリは燃えているか?」とパリ占領司令官にベルリンから電話したのはナチス・ドイツの敗北が避けられない事実となった敗戦間際のことである。自分の死に際し、世界一美しい街を道連れにしようと思ったのかもしれない。
パリを訪れた、画家になれなかった独裁者の心に、一抹の審美眼が残っていたのは不幸中の幸いだった。
(つづく)
