第三共和政の終焉 | 雷神トールのブログ

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1940年7月10日(水)フランスの国民議会(下院)の閉会とともに、第三共和政が終焉した。フランスは共和国ではなくなった。7月9日午前、下院が、次いで午後に上院が、ほぼ満場一致で憲法改正法案を可決した。

7月10日副首相ピエール・ラヴァルが組閣を一任された。
国会はヴィシーのカジノで開かれた。国政を決める厳粛な議会がカジノで開かれるなど、不謹慎なようだが、他に670人の議員を収容できる建物がなかった。

改正憲法はただの1条のみ。
「国会は全ての権限を、ペタン元帥の署名により、共和国政府に与える」

この法案は賛成570、反対80、危険20の絶対多数で可決した。


フランスの田舎暮らし-petan288


ペタン元帥とラヴァル首相が立法および行政の全権力を握る事実上の独裁政権が誕生した。「国会のハラキリ」と後に呼ばれるようになる。国会は自ら立法・議決権を放棄したのだった。

570人もの国会議員が何故こうもやすやすと自らの国民の代表としての権利を放棄してしまったのか? めのおには今この問に答える力はない。ただ、民主主義と言う制度がかくも脆いものだと怖れを抱くとともに、戦前戦後の日本の状況と比べてみたくなる。それはこれからのめのおの課題である。

ペタン・ラヴァルのヴィシー臨時政府はフランスのナチス・ドイツへの阿りの政治の始まりだった。第一次大戦の対独戦争でヴェルダンでの勝利を指揮したペタン元帥は国民的英雄として人気が高かったものの所詮は軍人である。実際の政務はすべてラヴァル首相の独断で行われた。

フランスの田舎暮らし-petinlaval


ナチス・ドイツへの阿りの政治の主なものは、60万人のフランス青年をドイツへ強制労働へ送ったこと。「アーリアニザシオン」と称してユダヤ人の財産を強制的に没収したこと。ユダヤ人の胸に黄色いダビデの星のマークを付けさせ、フランス警察の手によりユダヤ人の一斉狩りだしを行ったことがある。1942年7月16日夜から17日にかけてのパリ、ついでフランス全土で4万人に及ぶユダヤ人が狩り出され家畜輸送用の貨車でアウシュヴィッツほか強制収容所へ送りこまれた。


ここでハンナ・アレント(後注)の「全体主義の起源 - 1 反ユダヤ主義」(みすず書房)から引用させて頂く。

「共和政が滅びたのは、ドレフュス派がもはやいなくなったから、この共和政という形を取って現れた民主主義と自由、平等と正義が守られ得るし実現され得ると考える人々がいなくなったからだった。クレマンソーがその生涯の終りにあたって、『希望を抱く? そんなことは不可能だ! ……私を熱狂させたもの、民主主義というものをもはや信じていない私にはもはや希望は持てない』と言ったとき、共和国の運命はきまってしまったのである。」(上掲書178p)

「あのようにみごとにフランスをドイツに売りつけたペタン一派が近代的ファシズムの産物では全然なかったことは、彼らが四十年以上も前に作成された処方箋を忠実に守ったあの奴隷的な従順さにやがて示された。」

「ペタン政府は他のすべての傀儡政権よりも早く反ユダヤ法を制定したが、それは彼らには------彼らが誇らかにドイツ人に言明したように------ドイツから反ユダヤ主義を輸入する必要がなかったからだった。」(同署179p)

すでに良く知っておられる方も沢山居られると思うが、次回は重要な「ドレフュス事件」について触れておこうと思う。


(後注:ハンナ・アレントという思想家をめのおは知らなかった。アメブロに
一大実験小説音の風景 」をすでに3年連載されこれからも続けられる若き前衛作家ゆっきー女史がある日教えて下さった。ハイデッガーが愛読書といわれるゆっきー女史は、その直弟子のハンナ・アレントの「アウグスチヌスの愛の概念」の英語版しか手に入れられず解読に苦しんでいためのおを助けて下さった。この思想家を教えて下さり、英語の解読を助けて下さったことをここに厚く御礼申し上げます。)

 
(つづく)

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