1792年の普通選挙 | 雷神トールのブログ

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8月10日のチュイルリー宮殿襲撃には、マルセイユ連盟軍の他にブルターニュからブレスト連盟軍も反乱軍に加わっていた。ブレストの軍はスイス人傭兵と同じ赤い制服を着ていたので、味方に間違って殺された兵士が多く出た。

このチュイルリー宮殿襲撃の結果、立法議会はロベスピエールの主張通り、解散と普通選挙を布告した。

1792年9月2日から6日にかけ、フランス全土で国民公会代議士を選ぶ普通選挙が行われた。

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この時代、普通選挙といっても、女性に参政権はなく、成年(21歳)男子、収入のある者に限られた。昔から地方議会の選挙で採られていた方式と同じ、一家族当たり一票、21歳以上の家長が投票し、女性に選挙権は無く、男でも従僕、無職、無収入の者には選挙権が無かった。

投票率は極めて悪く、有権者の11.9% だった。

結果は、ロベスピエールが一位、ダントンが二位だった。

立法議会( Assemblee legislative )は9月21日に解散、代わって国民公会( Convention )が立法と事実上の行政の権力を与えられた。

国民公会の開会日の9月21日の議題は「王政の廃止と憲法制定」だった。
第一日目の会議で、コローデルボワとグレゴワール司教が王政廃止を訴える演説を行った。

「宮廷は犯罪の工房であり、汚職の炉心、圧政のなめし皮工場である」

「国王の歴史は、国家の神話論者が作り上げたものだ」

ふたりの演説の後、投票に移り、わずか15分で満場一致で王政廃止が議決された。

「この世で最も重要なことが、最も容易に行われた」と本屋のリュオーは記録し、さっそく「共和国第1年」と日付を書き入れた。

国民公会の議席数は745だった。
議場は最初、立法議会と同じ、チュイルリー宮殿のすぐ脇のマネージュ(Manege 馬術調教場)だったが、やがて宮殿内の別の場所へ移った。ここには800~900人が座れる席があり、必要に応じて、その倍の傍聴人を収容できた。

この間、ずっとフランスはプロシヤとオーストリアと交戦状態だったのであり、チュイルリー宮殿を襲った、サンタントワーヌ街の職人や商人、労働者のうち、一番屈強な男たちは2000人も国民衛兵として前線へ出ており、襲撃に参加したのは残った男と女だった。

彼らを襲撃に駆り立てたのは、飢えもあったが、それ以上に、ブランシュヴィックの宣言にあった様に、今にプロシヤ軍がパリに攻め入り、自分たちの身に危険が迫っているという危機意識だった。どこか幕末の日本の徳川幕府打倒に動いた下層武士たちと似ているではないか。

プロシアとフランスの交戦をヴァレミーの戦場で観戦していた文豪ゲーテは、「今日、この場所で、世界の歴史の新たな時代が記された」と書き残した。


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              ラ・マルセイエーズを作曲中のルジェ・ド・リール


プロシア王、フリードリッヒ2世は兵を引揚げ、フランス北部の街リールを包囲していたオーストリア軍も攻囲を解き、10月にはフランス全土が解放された。ドイツのライン河沿いの街は昔から親仏の人々が多く、詩人のハイネもその一人だったが、マインツやフランクフルトでは、ドイツ人もラ・マルセイエーズを歌い、三色の帽章を着け、フランス共和国の成立を祝ったほどだった。

(つづく)