ブルジョワ革命から民主主義革命への移行点は、立法議会を解散し普通選挙の結果、新しい立憲議会「国民公会(コンヴァンシオン)」が開設され、共和国が発足した1792年9月に求められる。その推移を推し進めたものが同年8月10日のパリの民衆を中心とする武装蜂起、「8月10日事件」と呼ばれるチュイルリー宮殿襲撃事件にあるので、そこを、少し詳しく調べて見よう。
1791年6月に国王夫妻が国外へ逃亡を企てヴァレンヌで掴った事件をきっかけに、穏健派と王党派が団結しブルジョワ革命を推進した。その年の9月14日にはルイ16世は1791年憲法への宣誓し、国王に復権した。同10月1日立法議会が招集され立憲王政が成立した。しかし、その後ブルジョワジーは分裂し、サンキュロットはマラーの根城であるパリのコルドリエ・クラブや自治市会へ出入りし、急進的な第二世代の指導者を生み出す土壌を準備した。コルドリエは現在もメトロ・オデオン駅の近くに残っている僧院。
パリだけでも48地区に委員会が設けられ「中央委員会」を中心にコンミューンが組織された。コンミューンとは自治の単位のことで、今日でも地方自治体の「村」に当たるのを「コンミューン」と呼んでいる。
人権宣言を起草したラファイエットは軍司令官に復帰し、立憲君主制を守ろうと試みた。メルシー大使を通じオーストリア軍に「ジャコバン派を解散させる為にパリに軍隊を率いて進軍する用意がある」ので軍事行動を一時停止するよう求めた。
そしてルイ16世にパリを捨て、コンピエーニュに脱出することを勧めた。国王は前回国外逃亡を企てヴァレンヌで捕まった失敗を繰り返すのを怖れ、信頼できるスイス傭兵の保護の許にチュイルリー宮殿にマリーアントワネットと子供二人と共に残る事を選んだ。
マリーアントワネットは周辺の諸君主の同盟軍に革命を威圧するよう求め、それがブランシュヴィック宣言となって現れたが、これに民衆が怒りを抱き、武装蜂起に火を付ける形となった。
7月25日、ロベスピエールは「現存の立法議会はブルジョワ階級にのみ立脚し人民を代表していない」と批判し、立法議会の即時解散を要求し、これに代わって憲法改正をすべき新しい議会「国民公会」を召集すべきと主張した(ジャコバンクラブにて)。
パリの民衆蜂起は1世紀前のフロンドの乱が、ドイツの三十年戦争とハプスブルグ家のスペインとの戦争の費用調達の為の増税に反対して起こった様に、この時も、多分に生活防衛的なものだった。
天候不順による作物の不作に続いて、西インド諸島のフランス植民地サン・ドマング(先の大地震で数十万人の犠牲者を出した現ハイチ共和国)では1791年8月から黒人の暴動が起こり、砂糖の出荷が停止され、パリで砂糖の値段が急騰した。さらに、他の食品も影響を受け出荷が停まるなどして食料品が欠如し値段が急騰した。サン・ドマングの黒人は、1809年についに革命を成功させ、世界初の自由黒人の共和国を樹立しハイチ共和国と名乗った。
こういう社会的背景のもとに8月10日の「パリ民衆蜂起=チュイルリー宮殿襲撃」事件が起こる。
8月9日現在、チュイルリー宮殿には950名のスイス人傭兵と王党派の「聖ルイ騎士団、そして2000名から成る国民衛兵隊が宮殿内のルイ16世国王一家の守護に就いていた。
一方の蜂起側は、マルセイユから戦闘経験のある古年兵を含む連盟軍がパリへ上り、それに続いてサン・キュロット、ついで2万人もの群衆が手に入るだけの武器、1万丁の銃と槍、棍棒を持ってチュイルリー宮殿に押し掛けた。
国王の周りに居た立憲君主派の貴族は、国王を立法議会へ逃がすしかないと判断し、家族と別れて独り退避する事を勧めたが、マリーアントワネットは国王と分離しようとする陰謀ではないかと疑って反対し、ルイ16世も家族全員一緒の避難を願った。ルイ16世が国王の身分や制度を防衛するより家族と一緒に居たいという家族思いの国王だったことを示している。
守備側の国民衛兵隊は脱走したり、反乱側に寝返ったり、敵意が無い事を示す為に群衆と歓談したりした。しかし、王党派の貴族の一部は死ぬまで戦う覚悟であり、ついでに議会も制圧しようと企んだ。
王門を開けさせ、群衆をカルーゼル広場に誘い込んだ。広場は四囲を建物に囲まれ八方から銃撃を浴びせるに適していた。午前8時、2千から3千の群衆がカルーゼル広場から中庭に入って来た。スイス人傭兵は号令一下一斉射撃を開始した。群衆は次々と倒れ血を流して死んでゆく。
蜂起側はこんどは王門からではなくセーヌ川寄りのルーブル宮殿の複数の入り口から宮殿に流れ込んだ。マルセイユ連盟兵は従軍経験があったし大砲も曳いてきた。彼らを先頭に、サンキュロット、サンタンヌ街の職人や商人、労働者の熱烈な共和主義者たちが続いた。スイス人傭兵は散開状態で砲撃を受け、中庭に逃げたが、あらゆる方向から侵入する群衆に抗しようがなかった。600名が殺された。うち60名は降伏後に殺されたという。「聖ルイ騎士団」は全員がルーヴルの別の回廊から逃げ出した。
(つづく)
