大多数(数百人いや600人という説もある)は中道派で、彼らは白熱した議論に耳を傾けるだけで動ぜず黙っているだけだった。平静で反応しないことから「原っぱ」または「ル・マレ(湿地帯)」と呼ばれていた。
山岳党は後に穏健派のジロンド党を国会から追い出してしまうので歴史に名の残る人物が名を連ねている。ダントン、ロベスピエールを筆頭に、マラー、カミーユ・デムーラン、ダヴィッド、カルノー、サンジュスト……。
国民公会が満場一致で決定した事は「王制の廃止」だった。
1792年9月21日王政廃止を決め、主権在民を認め、この日をもって「共和国第1年」とすべての公的文書に日付を記す事になる。
前国王ルイ16世は、存在しなくなり、ルイ・カペーと呼ばれるようになった。
これを聞いたルイは「私はカペーなんかじゃない」と呟いたと言われる。
従い裁判では、ルイ・カペーを、もはや「陛下」とは呼ばずに単に「あなた (vous)」と呼ぶ。
国民公会議員のほぼ全員が、王制を廃止し共和制を打ち立てることを目指した。その意味での大革命であって、20世紀前半にロシアと中国で起こったボルシェヴィキ、プロレタリア革命のように特権階級の「所有」を問題視することはなかった。
フランス大革命はあくまで「ブルジョワ革命」だった。
アメリカ独立戦争に少しの貢献をして祖国フランスに帰ったラファイエットは「人権宣言」の草稿を書くにあたって明瞭に、「所有権は神聖にして侵すべからざるもの」と謳っている。
サンジュストも高位の軍人の出身であり、いわば革命を主張する代議員達も多かれ少なかれエリート階級の出身だった。
本当に無産階級の出身者は新聞発行に情熱を傾けたカミーユ・デムーランくらいか。
しかし、「サンキュロット」という言葉で知られるように、蜂起の主体となったパリ市民は労働者階級か貧民、無産階級だった。サン(sans) キュロットは「パンツを穿かない」という意味になるが、キュロットとは膝下までのズボンで貴族や裕福なブルジョワが身に着けていた。貴族や上流階級が穿くズボンが穿けず、ステテコみたいなひらひらのパンツしか穿けない貧民を指して「サン・キュロット」と呼んだ↓
過激派のマラーはサンキュロットのパセテイックな力を上手く利用した。
テンプルの塔に捉われていたルイ16世と、マリー・アントワネット、二人の子供(7歳の王子と娘)、ルイの妹エリザベットは毎朝、看守によって点呼を受け、それはつい数日前まで国王として敬意をもって扱われたのとうって変わり、一介の罪人として扱われた。
王妃の姿を毎日見ていた人の眼にすら、その変わり果てた容貌は運命の残酷さを物語るものだった。憔悴したマリーアントワネットの髪の毛は数日のうちに真っ白になった。その塔を連日サン・キュロットが取り囲み、「独裁者の首を刎ね、棒の先に掲げよ!」と連呼の声を挙げた。
国王を裁判に掛けることを強力に主張したのは他ならぬマラーだった。
民衆により国王を断罪し葬らせようとし、国民公会の議場にオブザーバーとして1000人近い民衆を入場させ、その圧力で国王処刑を合法的に行おうと企んだ。マラーは性狷介でいちど恨みを抱いた相手をととことん追い詰めて死に追いやるという、得てして革命家にはありがちな性質の男だった。
元は化学者だったマラーは、論文を学会に提出したが実証性が欠けた、まるで主観的推量だけで書かれていた為、アカデミー委員で審査員だったラボアジェがマラーの論文を却下した。それを根に持ち、大革命のどさくさを利用してラボアジェをギロチンにかけて殺してしまった。ダントンもマラーの悪しき性格に警戒を抱いたほどだった。
外政では北部のベルギー、リールでプロシア、オーストリアと戦争が続いており、ヴァレミーの戦いでフランスが勝利を収めると新体制は活気づいた。プロシア王フレデリック・ウイリアム2世は軍を引揚げ、オーストリア軍もりールの攻囲を解いた。ブランシュヴィックとデモラリュズの間で和議が交わされ、宣言を出した。
しかしこの宣言を不満としたパリの民衆はチュイルリー宮殿に押し掛け、これを鎮圧するためルイ16世は軍隊を出して多くの犠牲者を出した。
ルイの裁判ではこの事件を人民への裏切りとして訴状に挙げた。
議長 「あなたは蜂起したパリの民衆に対し軍隊に発砲させ多くの民衆の血を流させた。鎮圧を止めたのは、民衆がバスチーユを奪い、蜂起側の勝利が確実と判ってからだ。この点について陳述を……」
ルイ 「あの時点で、私は軍の最高指揮を採る立場にあった。だが、民衆の血を流そうなどという意図は少しも無かった」
議長 「あなたは、眼の前で行われた乱痴気騒ぎで国旗が足で踏みにじられるのを見て見ぬふりをした。王党派の白色帽章が掲げられ、国が冒涜された」
(注:1789年10月3日に、ルイがヴェルサイユで催した乱痴気騒ぎを指す)
ルイ 「私は正しいと信じ観察をしていただけだ。白色帽章については間違いだ。それは私の眼の前では起こらなかった」
ナポレオンの帽章↑
ついで議長がルイ16世の秘密の戸棚から発見された機密書類に「ミラボーと国王とが共謀」し地方に反革命運動を起こさせた事実があることを明らかにした。
ミラボーは貴族(コント=伯爵)の身分だったが立憲君主制を主張し初期の大革命に多大の貢献をした。
稀に見る雄弁家として知られた。フランスの財政難の立て直しに力があったスイスの財政家ネッカーの娘のスタール夫人はミラボーの雄弁についてこう書き記している。「いちど口を切れば、なんぴとも彼に注意を惹きつけられずにおれなかった」↓
ミラボーは早逝してしまったために、フランスの立憲君主制は長続きしなかった。、逆に国王とミラボーとが通じていたことが知られると一般の反感を買い、怒った国民は、ミラボーの胸像を引き倒し、それまで国民的英雄としてパンテオンに祀られていたミラボーの遺骸を引きずり出し共同墓地に投げ込んでしまった。
(つづく)
大革命の最初の殉教者ルペルチエの城が サンファルジョーに
パリのカルナバレ革命博物館はルペルチエ館の中にあります





