そのユーグ・カペーの腹違いの弟は、エリベールといい、現ヨンヌ県の県庁所在地のオーセール( Auxerre 人によりオークセールとも発音する)の司教でしたが、このサンファルジョーの地に狩猟用の小さな城を建てました。990年のこととされています。
1146年には、この近くのヴェズレイの丘の大聖堂に騎士たちが結集し、第2回十字軍遠征に出発します。その頃、サンファルジョーの狩猟用の城は堅固な城砦に建て替えられたといいます。
1247年には聖王ルイが第7回十字軍を率い、この城の城主ジャンも加わります。
ジャンには一人娘のジャンヌしかおらず、ジャンは婿養子をとるようにと言い残して出発します。父親の言葉通りジャンヌは、チボー家のバール侯爵を婿養子に迎えます。バール侯爵はロレーヌ地方の領主でしたが、公爵へ格上げになります。
ジャンヌとバール公爵の孫のエドアールは聖王ルイの孫娘ブルゴーニュのマリーと結婚します。
1652年に、フロンドの乱の大コンデ公に味方をして、宮廷軍を率いるチュレンヌに向けて、バスチーユの監獄から大砲を発射させたルイ14世の従妹のグランド・マドモワゼルは、その咎で追放令を受け、パリからこのサンファルジョーの田舎へ移り住み、この城で4年間を過ごします。
グランド・マドモワゼル こと アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの肖像↑
流刑地にあっても、国王の従妹ですから凄いお金持ち。当時のヨーロッパで一番豪華なサロンをこの城で開き、ラ・ロシュフーコー、ラファイエット夫人、セヴィニェ夫人、作曲家のリュリーなど、今日も知られる一流の文人、芸術家が出入りして華やかな一時代を築きます。
ヴェルサイユ宮殿を設計した建築家、ル・ヴォーに頼んで、武骨な城砦を典雅な古典様式の城館に変貌させました。正面の入口は丸い塔がふたつ並んだ風変わりな城砦の面影を残しています↓
城門を潜ってすぐの中庭の奥のファサードはフランス古典様式の代表例とされています↓
長い間放置されていたので相当傷んでいます。それは、この城が二度の火災に遭ったからなのです。
1752年、城の真下のパン屋から出火し、ちょうどサン・ジャンの祭りで村の人たちはみんな隣村に遊びに行って留守だったため消火できず、火は民家を焼き払い城に燃え移りました。塔の屋根が焼け落ち、グランド・マドモワゼルが贅を凝らした城の内部は無残にも灰塵と帰してしまったのでした。
1856年にも、今度は城の内部から出火して火災に遭っています。
それでも庭からの城の眺めは、この上なく典雅です↓
右端の木立ちに隠れていますが、塔の屋根が焼け落ちてありません。
ジャンヌダルクと同時代人の、当時のフランスの臨時首都ともいうべきブルジュの大富豪ジャック・クールが一時期オウナーだった事もありました。
ジャック・クールは地中海貿易で財をなしたのですが、それよりシャルル7世の財務長官、造幣局長だったのですが良質の金貨を改鋳し、ロワール河以北を支配していた英国とブルゴーニュが流通させていた質の悪い金貨と同質の悪貨を作ることでジャンヌダルクの軍資金を作りだしたのでした。
しかし、やはり私腹を肥やす魅力に抗しきれず、裁判で有罪とされラ・ロッシェルの監獄へ繋がれます。結局はそこを脱走してローマに渡り、法王の庇護を得るのですが、最後十字軍に加わり地中海の島で歿します。
ジャkック・クールを有罪にした裁判官がこの城を自分の所有するなどがありました。
ずっと時代が下ってフランス大革命の頃、この城の主は当時フランスで最も若く、17歳で裁判官になり、21歳でパリ国民議会の代議員となったルペルチエでした。ルペルチエについては語ることがたくさんあるので、また稿を改めて書きます。
1979年から現在まで、この城はミシェル・ギユイヨー氏の所有となっております。その前は現フランス・アカデミー会員のジャン・ドルムソンでしたが、城の修復をするという条件で建築家のギュイヨ氏に破格の値段で譲渡したのでした。
ギュイヨ氏は近くの森の中に中世そのままの道具と工法で石の城砦の建設プロジェクトを推進してる人です。すでに10年掛かっています。完成までにあと10年掛かるそうです。ゲドロンの城砦と呼ばれています↓
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