フロンドの乱 その17 3人の釈放とマザラン追放 | 雷神トールのブログ

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コンデ大公夫人はギュイエンヌ地方へ行き、スペイン国王フィリペ4世の支援を仰いだ。ボルドーにスペイン特使が来たのはそのためである。一方、ロッテルダムに亡命したコンデ親王の妹、ロングヴィル公爵夫人は、ブラッセル経由でフランスとの国境付近へ出て、当時はフロンド派だったチュレンヌと落合い、スペイン軍のレオポルド・ギヨームと同盟を結び、パリへ向った。ヴァンセンヌの城砦に閉じ籠められた夫のロングヴィル公爵と二人の兄弟(コンデとコンチ親王)の救出作戦を展開するためである。

フランスの田舎暮らし-チュレンヌ
                   チュレンヌの肖像↑

この3人は結局13か月の間、2度移送され堅固な城砦に閉じ籠められていた。

スペインと同盟を結んだチュレンヌはボルドー遠征も考慮に入れていた。

パリでは、それまで義理の姉のアンヌ太后を支持していたガストン・ドルレアンがボルドーのフロンド党台頭を知るとギュイエンヌ情勢に介入し、妥協案としてエペルノン総督の更迭を提案した。これにはマザランが憤慨した。

チュレンヌと同盟を結んだレオポルド・ギヨームは軍をパリ北方のピカルデーへ進めた。ガストンは全面的和平を模索し、マザランもパリ高等法院との交渉で妥協案を受け入れた。ボルドーからコンデ大公夫人と息子のアンギャン侯爵、ブイヨンとラ・ロシュフーコー両公爵の無事退出と引き換えに、国王の巡幸を迎え入れること。

こうして10月5日、幼い国王ルイ14世がボルドーに入った。

ギュイエンヌ地方は、1152年にアリエノール・ダキテンヌがフランス王ルイ7世と離婚し、アンジェ公で英国王子だったヘンリー・プランタジネットと再婚した時から3世紀間英国領だった地方である。ギュイエンヌの領有を巡って英仏百年戦争が始まった。ギュイエンヌの首府ボルドーは歴史的にもフランス中央政権に対し独立意識が強い。大革命の時のブルジョワジーを代表するジロンド党はボルドーを中心とするジロンド県出身の議員が多かった。

フランスの田舎暮らし-ぶどう390

ルイ14世のボルドー巡幸にラ・メイユレ元帥が描いた夢は幻想に終わった。ボルドー市民は葡萄の狩り入れに精を出し、高等法院は不平を鳴らし、国王を冷たく迎えた。オルレアン公は国王のパリ帰還を薦め、10月15日、御一行はパリへの帰途に就いた。アンヌ太后は失意のうちにボルドーを離れ、田舎のデコボコ道を馬車で揺られてる間に病気になった。

御一行がパリに戻ると情況は悪化していた。マザラン批判のパンフレットがまたも出回っていた。チュレンヌ軍はパリに迫り、ヴァンセンヌ城砦に3人の救出作戦を実行しようとしていた。マザランは急遽、虜囚をランブイエの近くのマルクーシ城へ移送した。ここはセーヌ河とマルヌ川に守られチュレンヌ救援隊が容易に近づけない要塞だった。しかし、ここも危ないと見たマザランは3人をさらに遠方、セーヌ河が英仏海峡へ流れ出る河口の港街ル・アーヴルの城砦へ移送した。


フランスの田舎暮らし-城砦

50年12月15日、チュレンヌ率いる軍はプレシス元帥に破れた。
それでも、高等法院と旧フロンド派は国王に三人の虜囚の釈放を求めた(51年1月20日)。51年1月30日、ガストン・ドルレアンとフロンド派・親王支持者との間に「親王釈放とマザラン追放」の秘密条約が交わされた。ついでガストン・ドルレアンはマザランとの断絶を公にした(2月2日)。高等法院は親王の釈放を宣言し、プレシスと他の元帥に以後は
フランス王国総指揮官のムッシュー(ガストン・ドルレアンのこと)にのみ従う事と命令を発した。

マザランは2月6日パリを脱出、国王とアンヌ太后と落合う手筈になっていたサンジェルマンに潜んだ。高等法院は新たに「追放令」を裁決した。

国王とアンヌ太后はパレ・ロワイヤルに人質として捕えられたも同然だった。12歳の国王は、またもや逃亡するのではとの流言を鎮めるために寝室を解放し寝姿が公開された。(これが後に群衆が王宮の寝室にまで入り込みルイ14世が寝たふりをして難を逃れたという噂に変形した)。1651年2月9日の夜から10日にかけての事だった。

アンヌ太后は3人の釈放を承諾した。マザランはル・アーヴルに赴き自ら3人を釈放してから、ケルン大司教の許へ亡命した。

(つづく)

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