ルーアン同様、ブルゴーニュ地方の首府デイジョンもルイ14世を歓迎した。フロンド派も居たが、若い国王をあちこち引きずり回すのは宜しくないという批判は避け、単に国王の御健康が気遣われますと述べるに留まった。
ルーアンとデイジョンの巡幸が成功裏に終わったのに比べ、ボルドーは逆に反乱を再発させる結果を生んだ。1650年春には、判事見習い、小商人、職人らが、ボルドー防衛のために多くの時間を割き努力を重ね、強力なコンデ党を形成した。彼らの防衛行動が政治・軍事的に新しい形態へ発展する。それは「楡(ニレ)の木同盟」と呼ばれる革命的組織で、ボルドー市民が楡の木の下に集まり討議を重ねたことからロルメ( l'Ormee )と呼ばれている。
エペルノン地方総督と歩調を合わせラ・メイユレが率いる国王軍はボルドー周辺のフロンド派を制圧し、ボルドー市を落す為に城壁に迫った。ロルメを中心とするボルドー市民は高等法院にボルドー周辺20里(1リュー=約4km)以内に国王軍が侵入することを禁じる裁決をさせた。軍隊の侵入はボルドーの特権の侵害であるとのコンセンサスを市民は持っていた。
ラ・メイユレはエペルノンが人々から嫌われていると悟り、コンデ大公夫人と二人の公爵がボルドーを出て行くことを交換条件にエペルノン辞任を提案した。
こうした時、スペイン特使が到着した。フランス宮廷とスペインとは交戦状態にある。地方の高等法院は伝統的に外交問題に関しては宮廷に従うこととしていた。
王位継承権を持ち王家の血を引くコンデ親王の妃を保護することは国民国家形成過程にあったこの時代、フランス人の民族意識と関係している。マザランの「クーデタ」に対し、フランスの地方の古くからの諸侯は、フランスの宮廷を復活させる目的の許に連帯しフロンド派を形成していた。
ボルドー高等法院は明確にスペインと友好関係の締結に反対を表明した。その結果、市民との直接的な衝突を生んでしまった。親スペイン派の民衆は高等法院を占拠し、判事たちを小突きまわし罵声を投げかけた。
もし、この時、ラ・メイユレが市内に攻め込んだら、民衆は裁判官を虐殺しただろう。賢明なラ・メイユレは軍を退かせた。同時にボルドー市の防衛線が彼の軍隊にとっては破れないほど堅固なものと悟った。
秋の葡萄の収穫が近づいていた。
ラ・メイユレは、コンデ大公夫人にボルドーを去る勧告をし、マザラン、ルイ14世、アンヌ太后の巡幸を迎える準備をした。凱旋門で歓迎のスピーチ、饗宴、ワインをふんだんに使った噴水で町を沸かせる。
国王ルイ14世は軍を率いて来るのではなく、華やかに飾られた船でボルドーに入城するだろう。
(つづく)
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