アンリ4世の王権強化策のひとつには、たとえば中世の面影を今も湛える古い町「ノワイエ・シュル・スラン」(6月15日に本ブログに投稿)に、12世紀末、ユーグドノワイエが、ドンジョン(主塔)だけで80もあった、フランスでも屈指の堅固な城砦を築きましたが、1599年に国王アンリ4世はノワイエの城砦取り壊しの決定をした。これなど地方の強力な封建領主の力を弱体化させる政策だったと言えましょう。
1642年にリシリューが死に、ついでルイ13世が1643年に没すると、まだ5歳の幼児に過ぎなかったルイ14世が即位し、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政、ジュール・マザランがリシュリューを継承し実質宰相の座に就きました。マザランはリシュリューの政治を引き継ぎ王権の強大化、絶対王政を進めます。それに反抗したパリの民衆が
マザランの屋敷を取り囲み前回画像を投稿した「フロンド(石投げ器、まあパチンコ!)」
で攻撃したことから「フロンドの乱」と呼ばれています。
アンヌ・ドートリッシュと幼いルイ↑
ルイ14世の母親のアンヌ・ドートリッシュが執政、アンヌの相談役兼ルイの教育係のマザランがリシュリューの後を継いで実質的宰相となり政治の実権を握りましたが、アンヌはスペイン王フィリペ3世の娘であり、マザランはイタリア人でした(イタリア名ジュリオ・マッツアリーノ)。外国生れの人間に国政を牛耳られていることへの国民の反感も根底にあったでしょう。
またルイ14世の妃にスペイン王フィリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ)を迎える政略結婚を実現させたのはマザランでした。
マリー・テレーズの輿入れに際し、スペインの王位継承権を放棄する代わりに持参金五十万デユカをという約束でしたがスペインはこんな高額の金を払えませんでした。
ルイは五十万デユカを払えないのなら、スペインの王位継承権は、マリア・テレサにも、息子のフィリップにもあると主張しました。フランスは三十年戦争に引き続いて「スペイン戦争」にも加担してゆきます。
そんな時代的背景に起こったのがフロンドの乱です。
フロンドの乱の年代的位置づけは一般に、パリ議会が国王の権力の制限を謳った1648年6月15日の「27カ条宣言」から、1653年8月3日のボルドー市の恭順による反乱の制圧までの5年間を指すとされています。
議会の反乱(1648~1649)と封建大貴族(王子たちの反乱1651~1653)と。歴史家はフロンドの乱を大きく2つのフェーズ(相)に分けています。
フロンドの乱の原因としては大きく3っつの要因が挙げられています。
1)財政的理由。当時フランスはスペインと戦争の最中であり(スペイン戦争)、その前には三十年戦争(1618~1648)でスウエーデンと戦火を交えています。二つの戦争を継続するため重税を課し、王権による課税圧力強化に対し反抗が起こりました。
2)社会的理由。パリの議員たちが持つ特権に対し疑問が投げかけられたこと。
3)政治的理由。王権が絶対君主として唯一統治することへの反抗。
若い頃のアンヌ・ドートリッシュ。美人ですね↑
フロンドの乱に登場する主要人物は、リシュリュー、マザラン、若きルイ14世、その父ルイ13世の弟のガストン・ドルレアン(ルイ14世の伯父)、そのお妃モンパンシエ夫人、二人の間の娘(ルイ14世の姪)のアンヌ・マリ・ルイーズ・ドルレアン(グランド・マドモワゼル)、そして大コンデ公、彼のかつての部下チュレンヌ…です。中でも重要なのが、大コンデ公。そしておらが村(サンファルジョー)に関係あるのがグランド・マドモワゼルなんです。
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