フロンドの乱で一番面白いのは、最初王党派だったルイ2世(大コンデ公)が、反乱軍のフロンド側の指揮を取り、まだ幼なかったルイ14世の宮廷まで侵入し、幼かったルイ14世が寝室で寝た振りをして助かったとか、マザランとルイ14世を、フランスの地方都市のあちこちに追い回しながら、もう一息のところで取逃がしたり、などのお話です。コンデ公のかつての部下だった国王軍の司令官チュレンヌとコンデ公との戦いも、おらが村から15kmのブレノー村の周辺で行われましたが、それはあとのお楽しみに置いといて、今日は歴史家が2つのフェーズに分けた前半、王権力拡大強化への議会の反抗を見たいと思います。まずはフランスの議会の歴史のお勉強から。

今日のような国民主権の原則に元づいた議会制民主主義が出来上がるのは1789年のフランス大革命を待たなければなりませんが、それまでは三部会という名の身分制議会でした。1302年に召集された議会が最初の三部会とされています。

ウイキペデイアの日本語版にとても解り易い解説があるので、簡単なフランス政治史を兼ねて以下にその要約を記します。

三部会(さんぶかい)は、通常,全国三部会(フランス語:États généraux)を指し、フランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会のこと。

三部会はオランダのスターテン・ヘネラール、イングランド議会、スコットランド議会、スペインのコルテス、神聖ローマ帝国議会そしてドイツ諸侯の議会(Landtag)などヨーロッパ諸国の機関と同質のもの。

<中世の三部会>
フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世との紛争(アナーニ事件)に際し、国内の支持を取り付けるため1302年4月10日にパリのノートルダム大聖堂で三身分合同会議を開催した。これが三部会の始まり。
国王は三身分(聖職者、貴族、平民)からこの重大な危機に関する助言を受けた。同じ治世期にその後も幾度かテンプル騎士団廃止問題の審議や特別補助金を承認して国王に援助を与える三部会が開催されている。

特別補助金は三部会開催の最も頻繁な動機となった。

1337年に百年戦争が勃発するとフィリップ6世とジャン2世がたびたび三部会を招集して戦費のための特別補助金を受けている。1356年のポワティエの戦いでジャン2世がイングランドの捕虜になると王太子シャルルは対応策として三部会を招集した。この三部会でパリ商人頭(パリ市長)エティエンヌ・マルセルが議会制政治の雛型的な顧問会議による統治を要求して紛糾し、パリで反乱が発生した。王太子はパリを脱出し、マルセルに対抗する別の三部会を招集して支持を取り付け反乱を鎮圧している。


<近世の三部会>
三部会は王家の資金の欠乏とカトリックとプロテスタント(ユグノー)との対立により16世紀後半に復活した。
アンリ2世の崩御後に実権を握った母后カトリーヌ・ド・メディシスは1560年にオルレアン三部会を招集して摂政指名を受けるとともに、宗教融和策を図った。翌1561年にはポワシーとポントワーズでの三部会が招集され聖職者層に圧力をかけて財政負担を了承させることに成功したが、カトリックのプロテスタントとの会談は失敗に終わった。


フランスの田舎暮らし-三部会



ユグノー戦争中にアンリ3世によって招集された1576年のブロワ三部会では国王はカトリック同盟の要求を受け入れユグノーとの和平協定を破棄している。カトリック同盟の圧力が増す中で開催された1588年のブロワ三部会はアンリ3世による同盟首領ギーズ公アンリの暗殺というクーデターに終わった。アンリ3世が暗殺され、プロテスタントのアンリ4世が即位すると、彼に敵対するカトリック同盟が1593年にパリで三部会を招集し、カトリック教徒の国王の選出を試みたが成功しなかった。

1614年、アンリ4世の死に続いて政治的な混乱が起き、コンデ公の要求により摂政マリー・ド・メディシスはパリで再び三部会を招集した。三身分の意見の衝突が彼らを弱め、結局、三部会は仕事を終えることなく閉会している。
以後1789年まで再び招集されることはなかった。

この後、ブルジョワ出身の法服貴族から成る高等法院が、王権への諮問機関そして(もっぱら貴族特権の擁護のためだが)進展する絶対王権に対する抵抗勢力としての役割を果たしている。


<1789 年の三部会>
フランス革命の時、第一身分は10万人のカトリック聖職者で、彼らはフランス全土の5-10%の土地を所有しており、これは全身分の中で最も高い一人当たり所有率だった。第一身分の財産は免税されていた

第二身分は貴族で、子供や婦人を含んだ人口は40万人だった。1715年のルイ14世の崩御後、貴族は権力の回復を享有していた。彼らは高位官職や高位聖職、軍会議そしてその他の公共および半官半民の特権を独占していた。封建的慣習により
彼らも第一身分と同じく免税されていた。

第三身分は2500万人でブルジョワ、農民その他のフランス国民からなっていた。
第一、第二身分と異なり、第三身分は納税を強いられていたが、ブルジョワは何らかの手段でこれを逃れていた。

フランス政府財政の重荷は農民や都市労働者といった貧しい人々に課せられていた。第三身分からは上位身分に対する敵意が向けられていた。


フランスの田舎暮らし-三分340



<三部会の機能>
三部会には諮問機能しかなかった。三部会は特別補助金に同意を与える権限があり、これが招集の主な動機だった。恒常的課税が確立するにつれ国王はこれを不要とするようになった。16世紀に三身分は新たな課税には彼らの同意が必要であると主張したが、17世紀に入ると国王自らの権威で課税が可能になった。17世紀後半から18世紀には人頭税、十分の一税、二十分の一税といった直接税そして多くの間接税が設けられた。課税は租税院(cours des aides)と高等法院(parlement)で登記されることにより発効した。

三部会は立法権限を有さず、国王のみが立法権を有した。1576年のブロワ三部会は三身分によって採決された提案は必ず法令化するよう要求したが、アンリ3世は聞き入れなかった。ただ、三部会に出席した者は国王に対して不服申立てや請願をする権利を有していた。彼らは通常、王令(ordonnance)によって回答を受けた。

三部会の権限は、改正権と呼ぶべきものだった。古くからのフランスの一般法は「王国基本法」と呼ばれる多くの規則を含み、それらのほとんどは純粋な慣習だった。王位継承決定の規則と王領不可譲の原則は王権に優越しており、国王は廃止、改正または背反をすることができなかった。
だが、三部会の同意を受ければ特免が与えられ、国王はこれらを行うこともできた。三部会は国王の同意の下に新たな基本法を制定することさえもできた。1576年と1588年のブロア三部会はこの面での先例を提供した。ユーグ・カペーの血筋が途絶えた場合には三部会が新たな国王を選ぶ機能を果たすことが広く認められた。


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