「ぼくが読んでんのは小説ばっかだよ。中学までのぼくは、鳥とか魚とか星とか石とかさ……。モノについての知識はあったけどコトバってものを知らなかったから……。コトバでは眼に見えない心をあらわすことができるってこと、知らなかったからな」
「思春期に入ってココロの世界を発見したんだ」
「文学は人間のココロについてたくさん教えてくれるよ。いままでこんな広い世界があったのに知らなかったなんて、自分の幼稚さかげんに嫌悪をおぼえるくらいだ」
「若きウエルテルの悩みとかトニオクレーゲルとかハイネとか青春をあつかったドイツ文学をよく読んでたじゃないか」
「あれは片山が貸してくれたの。読めって」
「おれはフランス文学が好きだけどね。カミユの異邦人。あれ、ちょっと、むずかしいだろ。まだ」
「太陽がまぶしいからってアラブ人を殺しちゃう。なんか単純すぎるみたいけどね」
「あれも人間の不条理ってことの具象化なんだよ。ケン坊、ほんとにわかるの?抽象とか具象ってこと?」
「わかるよ。絵でいえばクールベの絵が具象でピカソやマチスなんかの絵が抽象画ってんだろ。
ピカソが描いた肖像画あるだろ。ぼく、退屈な授業のあいまに女の子の顔を観察するんだ。じっさいあんなふうに見えるよ。好きなコの、前から見た顔と横から見た顔をくっつけるとピカソになっちゃうんだ」
「ケン坊、好きなコがいるのか?」
「まあね……」と賢二は口許に恥じらいを浮かべて眼を伏せた。
(つづく)
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