失われた時 - その2 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

 父の母親は名前を「タマ」といった。お玉婆さんは、めのおが小学校に上がる頃、脳溢血で倒れ、それからはずっと寝たきりだった。いや、めのおが2年生の時、家族で家庭演芸会をやり、お玉婆さんが、めのおの横に座り唄を歌ったりしてくれた記憶があるから、倒れたのはその直後だったかも知れない。

 掘立小屋の炬燵を囲み、母、お玉婆さん、兄妹四人が、その頃建て増しされていた奥の八畳間との継ぎの廊下をステージに見立て、代わる代わる舞台に立ち、歌と芝居を楽しんだ。父親だけが、出張で居なかった。

 父も学生の頃、尺八に入れ込み師範代まで行ったというし、いったいにめのおの兄妹が芸事が好きなのは、このお玉婆さんの影響が大きい。孫たちに小唄やどどいつを聞かせてくれたから、意味はわからなくても、それが昔から続く「粋」だとかの感覚なのだと教わった。

 お玉婆さんは、いつもタバコ盆を傍に置いてキセルで吸っていた。その上に焼酎を飲んだ。めのおも兄も、7・8歳のころから空き瓶を持って、路地と新大久保駅前通りの角にある大きな酒屋「秋山」へ焼酎の量り売りを買いに行った。ときには職安通りにある蕎麦屋までうどんを注文に行ったこともある。この頃は蕎麦屋は無料で宅配してくれたが、一杯だけでは断られたのか、どんぶりを持って買いに行ったのを覚えている。

 めのうの父親は家庭的には恵まれなかった人で、自分の身の上については無口で訊いても最小限の返事しか返ってこなかった。それが家族には少し冷たい父親と感じられた。めのおが成長し、後年、家族の団欒の機会に少しづつ聴きとった答えを断片的に繋ぎ合せて見ると、父は4歳か5歳の時に、父親を事故で失い、お玉婆さんは後妻に行ったと判った。父は連れ子で養子に貰われたが、養父とはうまく行かなかったらしく、その辺のことは語りたがらないのだった。4・5歳の子供の頃から父は早起きして火をおこし、朝食を作ったという。

 父の実の父親は満州鉄道に勤め、父も満州で生まれた。子供は片言隻語に想像を加えるのでどこまで真実か解らないが、めのおの理解では、駅長だった父方の祖父は鉄道事故で死んだか事故の責任をとって自殺したか、なにか不幸なドラマがあって死亡したために父は語りたがらないということだった。

 父の姓はだから生れた時は、日本でもっとも数の多い「山田」で、養子に貰われ現在の姓に変わった。

 満州返りのお玉婆さんは、子供にも平気で「チョウセン」とか「チャンコロ」と蔑称を口にした。「鴨緑江のダムは日本が造ってやったんじゃ」などとも言っていた。縁起を担いだり神社仏閣に宗派を問わずお参りするのが好きだった。長い間壁に閻魔さまの絵が貼ってあったのを覚えている。

 お玉婆さんが脳溢血で倒れてから、お袋の苦労が増えた。めのおの両親は同い年で二十歳で結婚し、母は23で兄を25でめのおを産んだから、若かった。妹ふたりも30になる前に生れた。子供四人の世話に加え、寝たきりの姑の介護をする。小用は「オマル」で足していたが大きい方はトイレへ半身を抱えて連れて行かねばならなかった。

 まったくの重病人なら母も介抱に専心したろうが、半身だけが不随で、煙草も止めず、ときどき焼酎を子供に買いに行かせ、そのうえ、どうにも我慢できない「へらず口」を叩き「悪態」を吐く。子供たちもお玉婆さんを「いじわる婆さん」と見ていた。病人のお玉婆さんにしてみれば、言い訳は山ほどあったろう。寝たきりで、床ずれが出来たり腰が痛かったり、嫁が買い物に行ったきり、トイレを我慢してるのにちっとも帰ってきやしない。痛切なことがいっぱいあったろう。

 ある日の夕方、めのおが寝転んで絵本を読んでいると、買い物から帰ったお袋が、年寄りの寝床へ様子を見に行ったが、なにか嫌味でも言われたのか、台所へ走るように去り身を隠した。

 様子からなにかを感じためのおが台所へ行ってみると、お袋は顔を両手で覆って泣いていた。めのおが近づくと、お袋は傍に在ったネギの束を掴みドサッと床に打ちつけるや、泣き声で洩らすように言うのだった。

 「鬼ババア・・・」

 それからお袋とお玉婆さんの口論が始まった。子供には喧嘩の理由は判らないが、とにかく泣き散らしながら喚くお袋の声と、床の中で手を震わしながら叫ぶ婆さんの声が恐ろしげに飛び交った。

 喚き声は隣の平塚の耳に届き、「マサコ」さんが垣根の隙間を潜って仲介に駆けつけてくれたので、この時の嫁と姑の喧嘩は大事に至らずに済んだ。

 (つづく)


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