失われた時 - その3 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

 子供には歴史というものが解らない。むろん小学校でも牛若丸と弁慶の話や秀吉や家康の話を聞くから日本には昔、侍が居たとか、ずっと昔、縄文土器とか弥生式土器とかを作って稲作で暮らしたというようなことは知っている。

 けれども、いつも暮らしている家や通りの屋並みが、めのおが生まれた頃に大空襲に遭って焼け野原となってしまったことなど想像できなかったし、話を聴いてもずっと昔の出来事だろうくらいにしか感じられなかった。

 全龍寺と公園の堺にあった五本の欅の大木は大空襲にも焼けずに残った。そのことに今になって気づく。めのおの家の庭にはイチジクの木が3本。隣の平塚の庭には柿の木が生えていた。これらの木はおそらく戦前から生えていたのだ。

 他にも東側の数軒隔てた空き地に大木が生えていた。鈴懸の木だったような記憶がある。なぜなら、ある夏、めのおが昼寝をしているとミンミン蝉が鳴き始め、捕虫網をひっつかんで駆けだし、その空き地の奥の大木の幹にとまっていた青緑色のミンミン蝉を捕えることができた。透明な翅の蝉を初めて捕まえることが出来て嬉しかったのだが、蝉がとまっていた木の幹の色が同じ青い色をしていた記憶があるから。

 けやきの大木にしろ、このオリーヴ色の木にしろ7年や8年であんなにも大きくなる筈がないから、大空襲の前から生えていたのだ。ということは、この一角は東京大空襲で全焼せずに一部が焼け残った一角なのだった。

 しかし焼けてしまった家もあることは、ミンミン蝉を捕まえた空き地といい、小学校への通学路の途中に数カ所残っていた空き地からも言える。空き地には、茎の折れ口から黄色い汁を出す葉の広い草や赤まんまが生え、瓦礫の下に模様入りのタイルが顔を出したりしていた。子供たちはそういう空き地で馬跳びや戦争ごっこをして遊んだ。

 平塚とは柾の生垣の隙間から往き来をしていたから裏庭に踏み固められた通路が出来ていた。通路の脇に大きなイチジクの木が生え、めのおが但馬から土産に持ち帰って植えた「グミ」が大きくなっていた。

 平塚の庭に入るとすぐ左に鶏小屋があり、白いレグホン数羽とチャボなどがいた。鶏はときには小屋から出してもらい庭で餌をついばんでいた。庭に池があり赤い金魚が泳いでいた。柿の木はその横にあった。

 平塚の家には正義っさん、貞義っさん兄弟のほか、ふたりの妹がいた。「あつこ」さんと「きー」ちゃんで、あつこさんが二番目の長女、きーちゃんが末っ子だった。きーちゃんは田中の「くー」ちゃんと同世代か少しだけ年上だった。

 あつこさんときーちゃんは「平凡」や「明星」などの雑誌をとり、ブロマイドを蒐めていた。ときどき写真や雑誌を見せながら面白いよと話しに引き込もうとするのだが、めのおは「子供の科学」の方がずっと好きだったし為になると思っていた。それより、めのおは、貞義っさんが持っている「デンカン=電気機関車」に触ってみたかったのだ。八畳の部屋いっぱいに線路を繋ぎ、デンカンを走らせる貞義っさんが羨ましくてならなかった。

 「きー」ちゃんには「オネショ」の癖があり、庭の物干し竿に蒲団が干されるたびに、「やー、またきーちゃんがオネショ垂れた」と兄弟でくすくす笑ったものだった。かくいう、めのおだって夢の中で気持ち良く放尿し、はっと眼が覚めてふとんを探るとぐっしょり濡れていたことが何度かあった。

 あつこさんときーちゃんには姉妹がもうひとり居て、台湾に嫁いだまま向こうで暮らしているのだった。少年のめのおは、その話を聞くと、遠い外国に住む人は薄幸を背負っているのだろうと、なんとなく同情を覚えたものだった。

 あつこさんはやがて東(あずま)さんと結婚し、同じ敷地の奥に家を建てて住むようになった。東さんは仙台の網元の息子で大卒なのに東京へ出て来て魚の行商を始めた。話し方や立ち居振る舞いにどこかインテリの気配があり、めのおは敬意を抱いていた。

 朝早く築地の魚河岸に仕入れに行き、魚と氷を詰めた箱をリヤカーに積んで小型バイクで引っ張って売り歩くのだ。やがて「竜ちゃん」という男の子が生まれた。竜ちゃんは母親に似て色が黒くどんぐり眼をした健康でおとなしい子だった。

 東さんは盲腸炎をこらえてバイクに乗り続けたために腹膜炎を起こし、命を危うくしたことがある。幸いぎりぎりで手術が間に合い一命を取りとめた。そんな危険を冒してまで仕事をしなければならない行商人の生活をどうして続けるのだろうと、めのおは半分同情を覚えながら、網元の息子がなにもそこまでと子供心に思った。

 めのおが思った通り、東さん一家は仙台の実家へ引っ越して行った。竜ちゃんとめのおは気が合って仲が良かったので、いよいよ仙台へ行くという前の日に風呂に入っている竜ちゃんにお別れを言いに行った。

 平塚の隣が長崎さんの家で、「順子」ちゃんと「みちる」ちゃん姉妹が居た。お父さんはどこか大手の保険会社か銀行か高級官吏らしかった。お爺さんが大きな臼を持って居て、暮れには平塚とウチとでその臼を借り、大人二人が長い丸太の中央に臼を吊り下げて運び、庭の竈で炊いた糯米を代わり番コに杵で突いて餅つきをした。庭の餅つきは三年ほど続いた記憶がある。

 戦後すぐの新宿の外れには、こんな風に住人同士が自然助け合う、コミュニテイーが残っていた。めのおが二十歳になって世田谷に引っ越してからは、回覧板だけで、向こう三軒両隣と実質的に助け合う習慣は無くなった。

 (つづく)


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