そこには技術を理性でとらえ、言葉で表現し直し、弟子に伝えるといった精神が稀薄だった。はじめから言葉の価値を認めず、行為の神髄にせまることを目指している。究極のところすべての芸術はミメーシスに尽きるといえばそれまでだが、真の技術を究める段階に言葉と理性による把握、認識を置く西洋の教育法は万人向けで明るいように感じた。
あらゆる芸には物真似があり芸の伝達とは師匠の芸を盗み真似ることに尽きるかもしれない。日本の伝統芸能の教育法にははっきりとそうした意識がある。
そこへいくと、ベルトランは自分の芸を分析して理解し言葉で完全にとらえ直し、他人にいともたやすく説明できるのだった。楽器と人体の関係の合理的で理論的な説明をしてくれ、まず理性で理解することにより技と芸への到達を容易にしようという計らいが感じられた。それでも若い和秋には理解が不足で言葉を芸に置き換えるのに、試行錯誤を繰り返さなければならなかった。
(つづく)
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