アーネスト・ラザフォード=原子物理学の父(その2) | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

1911年 「原子核」の発見により、ラザフォードは科学に最大の貢献をした。

すでにモントリオールで、雲母の薄片にα線をぶつけると反射することを発見していた。ガイガーとマースデンは、この実験をさらに推し進め、金箔にα線をぶつけると90度以上(大角)の反射をすることを発見した。(α線の散乱実験

ラザフォードはこれらの実験に基づいた推論を展開し 「原子の中心に、原子の全質量とすべての正電荷をもった『核』があり、これによって一挙に散乱が起こる。原子の径は電子(エレクトロン)による」

ガイガーとマースデンは実験によりこの推論を実証した。

原子が核を中心に電子など太陽系に似た構造をしていると言う説は既に、1904年日本人の長岡半太郎によって唱えられていた。

フランスの田舎暮らし-切手


しかし、長岡のモデルは、電子が加速運動をしているにもかかわらず、電磁波を放射してエネルギーを失うことなく原子核の周りを回っている理由を厳密に説明できなかったために当初はあまり注目されなかった。

長岡のモデルは土星型モデルと呼ばれているが、実験の裏付けが無かった。当時はJ.J.トムソンのスイカ型モデルの方が信用されていた↓それに国際的にはトムソンの権威が知れ渡っていた。

フランスの田舎暮らし-スイカ

長岡半太郎は1893年から3年間ドイツに留学し、帰国後東京帝国大学の教授となった。1900年にフランス・パリで開催された万国物理学会に参加し、アンリ・ポアンカレやキュリー夫妻、アンリ・ベクレルなどと面識を持っている。

長岡は東京帝国大学を1926年に定年退職するまでに数多くの弟子を育てた。その中の最も有名な学者に、本多光太郎、寺田寅彦、仁科芳雄がいる。

ノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は仁科の弟子である。長岡は1939年、スエーデンのノーベル賞委員会に湯川秀樹への受賞を推薦している。この推薦は10年後の1948年に実現した。

ラザフォードは正確な実験結果に基づいて疑問の余地のない検証を行って現在も通用する原子モデルを確立した。ラァフォードのモデルは長岡よりはトムソンのモデルに強い影響を受けたと言われている↓

フランスの田舎暮らし-モデル

1914年 ラザフォードはナイトに叙せられ、サー・アーネストとなった。
第一次世界大戦の初期には潜水艦の探知方法を集中的に研究した。

一方フランスではマリー・キュリーが小型トラックに放射線撮影機を積み、娘のイレーヌを戦場経験させるために同乗させ、負傷した将兵の体内に残った砲弾の破片の位置を探知して、多くの命を救った。

1917年 キャヴェンデッシュ研究所の所長となる。

1919年 α線を窒素原子に衝突させ原子核の人工変換(酸素に変換)に成功した。

これによって中世から長い間錬金術師が抱いて来た金属を人工的に変換させる夢(実は普通の金属から金を生み出す夢だったが)が初めて実現したことになる。

1920年 中性子の存在を予言。教え子のチャドウイックが1932年に発見し、それによりノーベル賞を受賞している。
また、重水素の存在を予言し研究を行った。

1925年 J.J.トムソンの後を継ぎ、ロンドン王立協会会長となる。

1931年 男爵に叙され、ネルソン卿となる。 Baron Rutherford of Nelson of Cambridge

1919年から1937年にかけてはキャヴェンデイッシュ研究所の黄金時代と呼ばれる。ラザフォードが教え研究を励ました弟子には以下の科学者がいる。

1) ニールス・ボーア ( Niels Bohr 1885~1962 デンマーク)
ラザフォードの原子模型を使って水素スペクトルを説明し、水素原子模型を提唱。1927年「原子構造とその放射に関する研究」によりノーベル物理学賞。ボーアはT.A.ホイラーと共同で原子量235と238の2種類あるウランの天然同位体のうち、軽くて含有量の少ない235(天然ウランには235は0.7%しか含まれていない)が低速中性子によって、最も簡単に分裂することを示した。この研究結果が発表されたのは1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発する二日前のことであった。

2)ジェームス・チャドウイック James Chadwick 1891~1974
1932年中性子を発見し1935年ノーベル物理学賞受賞。

3)ブラケット 1897~1974 イギリス
ウルソン霧箱を使い、1935年α粒子を窒素に当て核反応を起こしてその霧箱写真を撮った。γ線の消滅の際に電子と陽電子が発生する「電子対創生」を発見した。
1948年に「ウイルソン霧箱による原子物理学と宇宙線の領域における発見」によりノーベル物理学賞を受賞。

4)コッククロフト(1899~~1967 イギリス)
粒子加速器による最初の原子核変換実験に成功し1951年ノーベル賞受賞

ほかにも、ソ連の物理学者カピッツア(1894~1984)

そして「原爆の父」オッペンハイマー Robert Oppenheimer がラザフォードの弟子である。いわずとしれた第二次大戦中の米国の秘密計画「マンハッタン計画」の科学部長として、原爆開発を主導した。ここでは注代わりに要点だけ述べる。
オッペンハイマーの父ジュリアスはドイツからアメリカに移住したユダヤ人で母エラ・フリードンは東欧ユダヤ人の画家。ロバートはニューヨーク生れ。ハーバード大学を卒業後ケンブリッジ大学に留学、キャヴェンデイッシュ研究所でラザフォードの指導を受け、ニールス・ボーアと知り合った。帰国後カリフォルニア大学バークレイの物理学教授となったが第二次大戦にアメリカが参戦すると「ロス・アラモス国立研究所所長」に任命された。ユダヤ人であった彼は、ナチズムという狂気の全体主義と闘う為に原爆が必要と考えナチスが原爆を開発する前に計画を実現しなければと砂漠に作られた科学者(他に芸術家もいた)の町を活気づけ日夜開発に打ち込んだ。ニューメキシコの砂漠でトリニテイー・テストと呼ばれる人類初の原爆の爆発テストが進行中、ドイツが原爆開発を行っていないとの諜報活動の結果入手できた情報が入った。この時点で、良心的な科学者ならば、原爆の開発を放棄すべきであった。しかし、勢いに乗ったプロジェクトは進行し、ルーズベルト大統領が急死し、後任のトルーマン大統領は一部の科学者の原爆開発中止署名を退け、トリニテイー・テストは行われ(1945年7月16日)、人類が未だかつて手にしたことの無い巨大な破壊力と殺傷能力を持つ爆弾が実現した。ナチスに代わり、ソヴィエトという全体主義から「自由を守る」というスローガンと、地政学的戦略から、そして表向きではないが「パールハーバー」への復讐と見せしめのために広島と長崎に原爆が投下された。
ドイツが原爆開発を行っていないと情報が入った時点でロス・アラモスを去った科学者がただ一人いた。ポーランド出身の物理学者ジョセフ・ロートブラット。 チャドウイックを長とするイギリス・チームの一員としてチャドウイックの家に寄宿していた。ロス・アラモスを去りたいと表明するとソ連のスパイ嫌疑がかけられたがチャドウイックの計らいで1944年のクリスマス・イヴにアメリカを去りロンドン大学の物理学教授となる。その後、核兵器と戦争の廃絶をめざす科学者たちの「パグウオッシュ会議」の議長を17年間務め1995年ノーベル平和賞を授けられた。

オッペンハイマーは戦後原子力委員会の職にあったが水爆開発に反対し、マッカーシー旋風(赤狩り)の吹き荒れる1954年家族に共産党員が居ることを理由に公職を追放された。彼が残した有名な言葉に「物理学者は罪を知ってしまった。そして、これは物理学者が失う事の出来ない知識である。」さらに「我は死なり、世界の破壊者なり」(古代インドの聖典バガヴァッド・ギーターの一節でヴィシュヌ神の化身クリシュナの言葉)クリシュナを自身に重ね、核兵器開発を主導したことへの後悔の念を表白している。

「ヒトラーという狂人が権力を握りナチス・ドイツが第三帝国の野望をあからさまにヨーロッパの周辺諸国を蹂躙しなかったなら、核物理学が兵器に応用されることは無かったかもしれない」と考えることはできる。歴史はそのようには進まず現代物理学は人類に光明を与えるのと背中合わせに恐怖を与えるものに変身した。アインシュタインという巨人を抜きにしては現代物理学は語れない。「マンハッタン計画」の詳細など、さらに知るべきことは沢山あるのだが正直めのおの手には負えない。眼に見えない世界というものは厄介なものだ。4次元世界に生きているとはいえ2次元の平面に絵でも描いて満足してる方が幸福だ。ただ、日常生活に直接関係ある原子力発電についてだけ近日中に書いておきたい。

ラザフォードは両手にいっぱいの名誉を抱え幸福な生涯を送った。物理学が幸福な時代だったところで一服がしたくなった。ラザフォードが幸せに生涯を閉じたところで終わりにする。

キャヴェンデイッシュでのラザフォードはその人柄の良さで皆に慕われた。明るい陽気な性格で鼻歌を歌っている時は仕事がうまくいっていることをみんなが知っていた。アダ名は「クロコダイル=鰐」ワニは決して自分の尻尾を振り向くことがなく常に前を向いて進むことからつけられたという。

ニュージランド生れについても、彼は常に「誇りに思っている」と述べている。

彼は理論よりも事実を重視した。実験的事実を重視する彼の態度は、非常な厳正さであり、おおいなる正直さの徴だった。「私自身は単純(シンプル)な男です」と言っている。

しかし、事実を尊重するといっても単なる事実ではなく、想像力を伴った事実と言わねばならない。

1925~1930年 王立協会の会長を務めたが、この時期、ナチスドイツを逃れてロンドンに亡命してきた大学教授たちを援助している。

1937年 身体頑強だったラザフォードは入院した。
自宅の庭の木を切っている最中怪我をし、病院でちょっとした手術をした。帰宅した時は健康そのもののようだったが、突然、容態が悪化し、10月19日永眠した。66歳だった。

遺体はウエストミンスター寺院に運ばれ、アイザック・ニュートンとロード・Kelvin (William Thomson)の脇に葬られた。