アーネスト・ラザフォード=原子物理学の父(その1) | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

パリでピエール・マリーのキュリー夫妻が新しい元素ポロニウムとラジウムを発見したちょうど同じ年の1898年英仏海峡の向こう側では、若き天才物理学者ラザフォードが従来の「物質観」をくつがえす偉大な発見をなしつつあった。

この年、ラザフォードは、ウランから二種類の放射線(α線とβ線)が出ていることを発見した。

ほぼ同じ時期、マリー・キュリーは、師のベクレルが発見はしたけれど、未知のものとして「ウラン線」と名付けていたものを、この現象はウランに限ったものでなく、ポロニウム、ラジウム、トリウムなどの元素に共通の放射能によるものであることを明らかにしていた。


アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford は1871年ニュージーランドに生れた。


今日、彼が「原子物理学(核物理学)の父」と呼ばれているのは、ケンブリッジにあるキャヴェンデイッシュ研究所を中心に前半生で数々の偉大な発見をなし、後半生を研究所所長として、講義をしながら多数の後進を育て、その影響が今日に及ぶ現代物理学の基本的な概念を築いた研究者を続々と世に送り出したからである。

ネルソンというニュージーランドの南島(South Island )の北端に深く切れ込んだ湾の奥に港町がある。その近くの農家に12人のうちの4番目の子として生まれた。

父ジェームスはスコットランド・バース出身の農夫だが、機械いじりが好きで、製粉用のミルを扱うエンジニアでもあった。母マルタは、イングランド・エセックス出身で結婚前は学校教師をしていた。

夫婦二人とも教育熱心で自分たちの子供が良い教育を受け、出来るかぎり勉強を続けられるよう心がけた。

アーネストは早くからその好奇心と算数の才能で両親はじめ周囲の注目を集めた。

ネルソンの中学校で、後に結婚するメアリー・ニュートンと知り合った。ネルソン高校では全科目主席の成績で、優等生であっただけでなくラグビーでも優れた才能を示した。ラグビーをこよなく愛し、大学へ進学しても続けた。科学者としてはがっちりと体格の良い男だった。

1889年、クライストチャーチのカンタベリーカレッジ(現在のカンタベリー大学)に在学中、電波検知器を作り、鉄の磁性化に関する論文で理学の学士号を取った。

1895年、科学奨学生となり、英国ケンブリッジのキャヴェンデイッシュ研究所(写真下↓)に留学、所長だった「電子の発見者」であるJ.J.トムソンの指導を受けフランスの田舎暮らし-カヴェンデイシュ。アーネストはこの研究所へ海外からの最初の留学生だった。

1898年(27歳) ウランから二種類の放射線(α線とβ線)が出ていることを発見。
カナダのモントリオールにあるマギル McGill 大学の物理学教授のポストに招かれる。中学校時代に知り合ったメアリーとカナダに移住。2年後にメアリーと結婚
この年、γ線が電磁波であることを示し、トリウムから放射性物質の寿命と周期を発見。後に「半減期」の概念を作る。

1902年、モントリオールの化学者フレデリック・ソデイ Frederick Soddy (写真フランスの田舎暮らし-ソデイー 左←)の協力を得てトリウムから発せられる物質は放射性の原子だが、トリウムに限られたものではなく、元素が放射線を放出すると別の元素に変わると考え「放射性元素変換説」を提唱。また、放射能は物質の崩壊により起こると結論づけた「原子崩壊説」を唱えた。

ラザフォードの「原子崩壊説」は、ニュートンはじめ、長年にわたって化学者たちに信じられてきた「原子は物質の最小単位で固く壊れない」とする伝統的な物質の概念を覆すものだったので大変な動揺を生んだ。

1903年 ラザフォードの仕事はロンドン王立協会( Royal Society )に認められ、1904年ラムフォード賞を受賞した。

1904年に出版した「放射能 Radioactivity 」という本でラザフォードは説明している。
「放射能は外部の圧力や温度、化学反応に影響されず、化学反応よりはるかに高い熱を発する放射の結果、放射性元素は化学的に異なった性質を持つ新しい物質に変換し、放射されたもの(放射線)は消失する。」

フレデリック・ソデイと共に彼は、放射による原子崩壊の放出するエネルギーは化学反応の2万倍から10万倍も大きなものと推定している。

「このようなエネルギーは太陽から発せられるエネルギーとして説明される。さらに、地球が一定の温度を保つのは、地球の内部で起きている原子崩壊の反応によるものに違いない。」

原子が巨大なエネルギーを潜在的に持つという考えは、1年後(1905年)、アインシュタインが質量はエネルギーの1形態であり、エネルギーと質量等価性の法則( E=mc2 )特殊相対性理論によって展開することによりさらに明確に推進された。

エネルギーと質量等価性の法則は、キュリー夫妻の見つけた放射性元素の崩壊における質量欠損を測定すれば検証できることとも関係している。

モントリオールのマクギル大学でこの研究をしたラザフォードを慕って、後に「核分裂」の発見者になるオットー・ハーン( Otto Hahn )が来訪し、数カ月間共に研究活動をしている。

1907年 マンチェスター大学の教授になる。
ハンス・ガイガー ( Hans Geiger )と共同で、α粒子の計数に成功。アルファ線の
検知器を共に発明。後のガイガー・ミュラー計数管として実用化される。

フランスの田舎暮らし-がいがー

                      ( Hans Geiger ハンス・ガイガー)

1908年 教え子のひとりトーマス・ロッド(別説にボルトウッド)と共同で、アルファ粒子がヘリウムの原子核に他ならないことを突き止めた。証明には、α線をガラス管に集め、放電スペクトルを調べることでα線がヘリウムの原子核であることを示した。

この年、「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノーベル化学賞を受賞した。
ラザフォード自身は化学賞を贈られたことに失望を隠さなかった。
なぜなら彼は自分を物理学者だと考えていたし、物理学を他の科学より上に置いていたのだったから。

ラザフォードの残した言葉に
 「All science is either physics or stamp collecting. 」がある。

すべてのサイエンスは物理学か、さもなければ切手収集だ

彼が物理学を科学の最高位に置いていたことを端的に表している。

(アーネスト・ラザフォード:後半は次回に続きます)