ピエール&マリー・キュリー夫妻 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

マリア・スクウオドフスカ・キュリーは1867年ロシア支配下のポーランドに生まれた。

ポーランドはロシア、オーストリア、プロイセンの三国の三度の領土分割により1795年には国家自体が消滅した。

1807年にナポレオンによりワルシャワ公国が出来たが事実上のフランスの衛星国に過ぎなかった。1815年、ウイーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、ロシア皇帝が国王を兼務する「ポーランド立憲王国」を成立させた。

南部の都市クラクスは共和国として一定の自治を認められていた。
ポーランドの民族主義者たちは独立運動と蜂起を繰り返すが、ロシア軍により鎮圧された。

マリアは5人姉兄の末っ子として生まれた。父のヴラドウイスラスはペテルブルグ大学で科学教育を受けワルシャワで教鞭をとっていたが、民族意識が強く信念を曲げないため官憲から疎んじられジョゼヴ中学の教師をしていた。母は没落した田舎貴族の娘でやはり教師をしていた。

マリアは学業最優等で高校を卒業したが当時女性は大学へ行けず、また反ロシア運動(移動大学)に加わったりしたため、祖国で進学することを諦め、まず姉のブロニスラワを先にパリへ留学させた。
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18歳で住み込みの家庭教師をしながらマリアは姉に仕送りを続け、自分も将来のパリ留学のために貯金をした。ブロニスラワはパリで医学部を卒業、同郷の医師と結婚した。そこそこの貯金が溜まったマリアはいよいよパリへ出たのだった。

最初は姉夫婦のアパートに置いてもらったが、やがて小さな屋根裏部屋を借り独りで勉学を続けた。1893年物理学の学士試験に首席で合格。翌年に数学の学士試験を2番で合格している。マリアは勉学を終え次第、祖国へ帰り、祖国の独立のために力を尽くしたいと夢見ていたのだった。

しかしこの年、1894年にピエール・キュリーと出会い、彼女の運命が変わる

1894年春、リップマン研究所でマリアをピエール・キュリーに引き逢わせたのは、当時フライブルグに住んでいたジョセフ・コワルスキーというポーランド出身の物理学者だった。彼は同郷の若い女学生にフランスの物理学者を紹介し支えになって貰おうとしたのだった。
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コワルスキーの意図を遙かに超え、この二人は同じ科学の道を志す者同士の深い友情に結ばれ結婚することになる。

ピエールは、それまでに、兄ジャック・キュリーと共同で行った磁性の研究で大きな業績を挙げ、さらに磁性体が温度を上げると磁性を失うことを発見。「キュリー点(温度)」と命名するなど若くして業績を挙げていた優秀な物理学者でパリ市の工業物理学・化学学校の実験主任をしていた。

ピエールは圧電効果の研究もしており、これは後のマリーとの共同研究に絶大な貢献をすることになる。

ピエールは物事を純粋に考えるヒューマニストで、一生を科学に捧げ、結婚はむしろ科学研究の障害になるからしないと考えていた。

しかし、マリアと出会ったことが彼の運命をも変えるのだった。

1894年の夏から秋にかけ、マリアが家族とともにヨーロッパを旅行しなかったら、結婚はしまいと考えていたピエールの心がマリアとの出会いによってどんなに変わったかを我々は知ることができなかったろう。ピエールは人に心の内を明かすことをめったにしない内気な性格だから。

ピエールがマリアに宛てた4通の手紙が残っている。
科学者のピエールは「愛」だの「恋」だのといった表現はいっさい使わず「友情」という言葉で「求愛」をしている

「あなたの祖国愛の夢、私たちふたりの人道的な夢、そして私たちの科学への夢。そうした夢に催眠術をかけられたように、お互い傍近くに居ながら人生を生きるのは美しいことではありませんか。」

このピエールの求愛の言葉はすごく有名になっているが、めのおは、むしろ上の言葉の直後に続けられる次の言葉に、科学者としてのピエールが表わされているし、マリアの気持ちが動いたのも、この言葉ではないかと思う。

「これらの夢のうち、最後の夢だけが適正だと僕は信じます社会状態を変えることは僕たちには出来ないし、人道的な夢といっても良いことよりも悪いことをしてしまわないともかぎらないからね。」

「ただ科学だけが仕事場がここにあって確実なものだし、僕たちが何かをなしたと主張することができるし、どんな小さな発見でも、獲得されたものとして残るんだ。」(Anna Hurwic 著 Pierre Curie による引用を意訳しました

その年の暮れ、いったんワルシャワに帰ったマリアは、ピエールの度重なる「友情」を受け入れ、再びパリへ出てくる。

二人はムフタール街にアパートを借りて住み、1895年7月26日結婚する。

ピエールは無宗教だったし、マリアは洗礼は受けただろうが教会へは行かなかった。二人は教会で式は挙げず、ピエールの実家があるパリ南郊外のソー( Sceau )の市庁舎で、親戚家族だけのつつましい結婚式を挙げたのだった。

新婚旅行が変わっている。自転車で気ままな旅をした。当時前輪が巨大な自転車に代わって両輪の径が同じの現在と同じスタイルの自転車が出たばかりだった。二人はツールドフランスの先駆けと言えないことはない↓

フランスの田舎暮らし-ばいく


ピエール・キュリーと結婚後マリアはフランス国籍となり、名前をフランス風にマリーとする。

二人の実験室はじゃがいも倉庫と馬小屋に挟まれた粗末な建物だった。屋根には穴があき雨漏りがした。実験には酸を使い有毒ガスが発生するが換気扇がないので、準備作業は天気の良い日に中庭で行うしかなかった。

1897年、長女イレーヌが生まれる。

ピッチ・ブレンドからウランを抽出した後の残渣がウラン自身よりも4倍も強い放射能を示すことを最初に気づいたのはベックレルだった。

ベックレルはマリー・キュリーにピッチ・ブレンドを研究するよう勧める。

1898年6月に、ピッチブレンドからウランの放射線の300倍も強い放射能を持つ「新しい元素」の分離に成功。マリーの祖国を思ってピエールと「ポロニウム」と名付けた。

その年の12月には、もう一つの物質を発見する。

ウランとポロニウムを抽出した残渣にはなお強い放射能が残っていた。

それはピッチブレンドに僅かだがウランの600倍も強い放射能を持つ元素が含まれていたからである。

ピエールとマリーはピエールが発明した「ピエゾ効果」を利用した超高感度の電圧計を用いて初めて放射線の測定を行った。

フランスの田舎暮らし-計器
         (二人が測定に用いたシステムを再現したものがミュゼアムにある)

こうして、もう一つの新しい元素「ラジウム」が発見された。


ラジウムの発見でベックレル、ピエール、マリー3人が一緒にノーベル物理学賞を受賞した。女性として初めてのノーベル賞だった。1903年のことである。

1906年、ピエールはソルボンヌ大学の教授に就くが、直後、雨の日にポン・ヌフの近くで馬車に撥ねられる。荷馬車と乗合馬車に挟まれ即死だった。

マリーはソルボンヌ大学から請われてピエールの後任として講師となり、ピエールが終えたところから講義を続けた。1908年に教授に就任。ソルボンヌで初めての女性教授となった。
フランスの田舎暮らし-胸像

            (キュリー研究所の中庭にある二人の胸像)

マリーは、もちまえの我慢強さ忍耐強さで、1898年から1902年に掛けての英雄時代に続き、ラジウムの存在を理論的に示しただけでは納得しない頭の固い学者に示すためピッチブレンドの残渣を数トン手で捏ねあげ1910年わずか0.1グラムの単体ラジウムの抽出に成功した。

ピッチブレンドの残渣は産出国のオーストリアでは皮を黄色に染めたり塗料に使うウラニウムを抽出した後の残渣が森に積み上げてあり、ほぼ無償で数トン寄贈し、マリーは運賃だけを払ったという。

この業績でマリー・キュリーは1911年2度目のノーベル賞を受賞した。こんどは化学賞だった。

ピエールとの間にできた2人の娘、イレーヌとエヴ を育てながら、教授と研究を続けたのだから凄いというほかない。

フランスの田舎暮らし-キュリー娘



マリーとピエールの業績は原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証したこと、ラザフォードと並んで20世紀の原子物理学の基礎を築いたことにある。

長女のイレーヌは成長してやはり科学者になり、フレデリック・ジュリオと結婚する。二人は結婚後マリーの願いを入れキュリーを名乗った。イレーヌ・ジュリオ・キュリーとフレデリック・ジュリオ・キュリーは人工放射能の発見で1935年ノーベル化学賞を受賞した。一家で5つのノーベル賞を受賞している。

ジュリオ夫妻が人工放射能を発見した研究室が現在キュリー・ミュゼアムとなって一般に開放されている。写真はその入り口とラボに隣接する事務所↓

フランスの田舎暮らし-いりぐち

           (上と下はキュリー研究所内のミュゼアムの入り口)

フランスの田舎暮らし-階段

            (マリー・キュリーも所長として使っていた事務所↓)

フランスの田舎暮らし-事務所


娘エヴが書いた伝記はその後のキュリー夫人伝のモデルとなった。2006年3月には日本語訳が出版されている。エヴは母親譲りの自由を希求する芸術家でナチ占領下「自由フランス軍」に参加している。

長年の放射性物質に防護服も着ず普段着で被曝にさらされ続け、マリー・キュリーは1934年、66歳で骨髄性白血病(leucemie リューケミア)で亡くなった

墓は長い間、パリ南郊外のソーにあったが、ミッテラン大統領の決断により1995年、フランスの国民的英雄を祀るパンテオンにピエールの遺体とともに移葬された。これまた女性としては初めての、しかも外国から移住した人物の初の殿堂入りである。

フランスの田舎暮らし-通り


今日、ピエールとマリー・キュリー研究所、病院、ミュジアムは二人の名をとった通りにある。ソルボンヌの脇を通るパリで一番古いサンジャック通りと、デカルトが住んでいたウルム街に挟まれ、二人が眠っているパンテオンのすぐ近くにある。