フランスの画家ポール・ゴーギャンをモデルにチャールズ・ストリックランドと言う名の男が主人公の小説。
ご存じのようにゴーギャンは銀行に勤める真面目なサラリーマンだったのだが、ある日、家族も祖国も捨て、画家となって南太平洋のタヒチ島へ移住した。
移住の理由として推定出来るのは、高度に発達した産業社会の人間関係の冷たさと偽善とウソがいやになり、未開文明と見做されている原始的な民族習慣を保った共同体に残る暖かく真実な人間関係を愛したのだと思う。
ゴッホと南仏のアルルで一時期、共同生活を試みるが破綻し、悲嘆と孤独に耐えかねたゴッホが自分の片耳を切り取りゴーギャンに送ったというエピソードは有名だ。
これには3説あり、ゴッホがゴーギャンと口論の末、孤独に耐えかねて精神的発作を起こしゴーギャンに切りつけようと持っていたヒゲソリで自分の耳を切り落したという最も広まっている説。
ゴッホの弟のテオが近く結婚すると知らせて来たのにショックを受け耳を切り取ったと言う説。
そして、最近、ゴッホの耳を切ったのは、ほかならぬゴーギャンだったという説が現れている。いずれも、今となっては真相がどうなのかわからない。
ゴッホは悲しいまでに人を愛し、その愛が強烈過ぎて恋する女性にさえ疎まれてしまった。絶望し孤独へ陥るしかないゴッホ。ゴーギャンもまたゴッホに劣らぬ異常に個性の強い男だった。
強烈な個性がふたり、折り合って共同生活を続けられるワケがない。ゴッホは奇跡を求めたのだ。
ゴッホは精神病院へ入り、ゴーギャンは南太平洋へ旅立つ。
ゴーギャンの彫刻や絵がパリのオルセー美術館に展示されている。
しかし、めのおが今日ここで触れるのはゴーギャンの最後の作品と言われている大作。タイトルが長い。
1897年にタヒチ島で描いた最後の大作の左上の隅には「われわれは、どこから来たのか?われわれは何なのか?われわれはどこへゆこうとしているのか?」と書きこまれている。この長い文がタイトルを兼ねている。ゴーギャン自身が画布の左上に書いた。幅 4m X高さ1.5mのこの大きな絵はボストン美術館の所蔵。
英語では:
Where Do We Come From? What Are We ? Where Are We Going ?
フランス語では:
D'où venons-nous ? Que somme-nous ? Où allons-nous ?
フリーで使える全体像はもとのサイズだと画面からはみ出してしまうし、縮小すると小さすぎるので、ちょうどいい大きさの部分像と小さな全体像を借用します。
中央に磔(はりつけ)のキリストを思わせる、両腕を上に挙げた黄色い裸の人物。左には青い東洋の仏像みたいのが石の上に立っている。左上の黄色い角に上の文字が書きこまれている。
絵と言う画像、イメージで人間はある程度、情緒や心理や感情を表現できる。しかし画像では伝えきれない考えとか思想とかが人間にはあり、その表現のためには「言葉」が必要になる。
ゴーギャンは生涯の最後に画像に「言葉」を書きこんだ。「われわれは、どこから来たのか?われわれは、なんなのか?われわれは、どこへゆくのか?」
もの凄い形而上学的な深遠な言葉だ。
こういう思いは「言葉」を用いなければ明瞭に伝えることはできない。
ゴーギャンが画業の最後に絵に「言葉」を付け加えたことは象徴的だ。
画像だけでは彼が最後に達した想いを表現しきれなかったのだと思う。
日本のかつての文学は情景描写、心理描写を主体とした。心理を書く代わりに風景の描写をすることが多かった。小説の神様と言われた志賀直哉の「城崎にて」という短編は病気の主人公が小川でカエルが岸辺の木の枝に飛びつく姿を描写している。生命のありかた。生命とはなにか?をこの情景描写によって感じさせる。
しかし志賀直哉は言葉を使う小説を書きながらも、「われわれは、どこからきたのか?われわれは、なんなのか?」などと直接的な問いを発したりはしない。この心境小説にそんな「あからさま」な表現を入れようものなら「ブチ壊しダ!」と怒鳴られるだろう。
三島由紀夫が「仮面の告白」でデヴューしたとき評論家の中村光夫は「マイナス130点」だったか160点だったか?とにかく悪い点を強調して逆に評価するということをやった。従来の伝統的な小説の美意識からは想像もできないくらい直接的な表現がこの告白小説には随所に使われていたからである。
人間を観察し、人間社会というものを観る時、ひとはふとゴーギャンが書いたような思いにとらわれる。「人間というものはなんであり、どこからきて、どこへゆくのだろう?」
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」には、ゴーギャンほどはっきり文章化してはいないが似たような想いに主人公がとらわれる場面があったように思う。昼間、仕事に行かない主人公が都会の雑踏の中、どっか少し高い所に腰掛けるなどして、絶え間なく行き交う通行人を眺めている。
すると「この人たちは、なんでこんなに忙しく動き回り、どこへ、なんのために行くのだろう?」と普段は思ってもみない、日常を超えた不思議な感慨にとらわれる。
西洋では、ゴーギャンの「想い」を初めて、このような「言葉」として形にしたのは文献としてはギリシャのプトレマイオス(天文学者とは別人)に遡るそうである。
キリスト教がローマ帝国の国教として認められ全盛期を迎えた時期と重なるといわれる。
それは、「グノーシス」「グノーシス主義」と呼ばれる思想流派として当時かなり広い層に流布していたそうだ。
グノーシスは「認識」「知る」といったような意味をもつ古代ギリシャ語の普通名詞。
グノーシスについて、まだ語るほどの知識をめのおは持たないが天地創造について、また「悪」の起原についてグノーシス派と呼ばれる人々が思索を巡らせたということに興味がある。
宇宙とこの世界とを創造し給うた神の上に、さらに「至高の神」が在るとするのがグノーシス派に共通している。キリスト教の一派なのだが正統キリスト教からは異端とされている。なぜなら神が創造し給わった「この世」は悪であり、善なる世界は「至高の神」が司るこの世を超えた「彼岸」にあるとグノーシスたちは信じたからである。
大きくグノーシス派にはエジプト系とイラン系とがあり、エジプト系は正統キリスト教のように神が宇宙を創り給うたのであり、闇と悪はもともと善なる天使リュシフェールが堕落したものとするに対して、イラン派はマニに代表される、善と悪は二つの対立する宇宙の根源として最初からあったとする説をとった。
マニはゾロアスター教と同じ地方の出身なので善悪の起源に関しては同じような思考をとった。マニ教はキリスト教神学の父とも呼ばれるべきアウグスチヌスが若い頃6年間も信者となったことがあり、後世12世紀から13世紀にかけて北イタリアと南フランスで流行した「カタリ派」に引き継がれてゆく。
カタリ派は異端としてローマ・カトリックから厳しい弾圧を受け、「アルビ十字軍」としてフランスの北から軍を差し向け、転向しない信者を火炙りにした。カタリ派の最後の拠点はピレネーにある「モンセギュール」という山の上にさらに突き出た小高い岩の上に築かれた城塞であったが、ついに落城した。
信者たちはひとりも信仰を捨てることなく全員が進んで火の中に身を投げた。
めのおは昨年5月、「カタリ派」に興味を持ち調べて書いた記事を、もうひとつのブログ「アトリエ・そうりん」に投稿したので、興味ある方は是非覗いてみてください。
カタリ派について - その1
カタリ派について - その2
カタリ派について - その3
カタリ派が日本人のめのおに興味があるのは、彼らが
1)菜食主義者だったこと
2)輪廻転生を信じたこと
3)宇宙の創造と善と悪の起源に関しては二元論だった
ことなどが挙げられる。
絵と言う画像、イメージで人間はある程度、情緒や心理や感情を表現できる。しかし画像では伝えきれない考えとか思想とかが人間にはあり、その表現のためには「言葉」が必要になる。
ゴーギャンは生涯の最後に画像に「言葉」を書きこんだ。「われわれは、どこから来たのか?われわれは、なんなのか?われわれは、どこへゆくのか?」
もの凄い形而上学的な深遠な言葉だ。
こういう思いは「言葉」を用いなければ明瞭に伝えることはできない。
ゴーギャンが画業の最後に絵に「言葉」を付け加えたことは象徴的だ。
画像だけでは彼が最後に達した想いを表現しきれなかったのだと思う。
日本のかつての文学は情景描写、心理描写を主体とした。心理を書く代わりに風景の描写をすることが多かった。小説の神様と言われた志賀直哉の「城崎にて」という短編は病気の主人公が小川でカエルが岸辺の木の枝に飛びつく姿を描写している。生命のありかた。生命とはなにか?をこの情景描写によって感じさせる。
しかし志賀直哉は言葉を使う小説を書きながらも、「われわれは、どこからきたのか?われわれは、なんなのか?」などと直接的な問いを発したりはしない。この心境小説にそんな「あからさま」な表現を入れようものなら「ブチ壊しダ!」と怒鳴られるだろう。
三島由紀夫が「仮面の告白」でデヴューしたとき評論家の中村光夫は「マイナス130点」だったか160点だったか?とにかく悪い点を強調して逆に評価するということをやった。従来の伝統的な小説の美意識からは想像もできないくらい直接的な表現がこの告白小説には随所に使われていたからである。
人間を観察し、人間社会というものを観る時、ひとはふとゴーギャンが書いたような思いにとらわれる。「人間というものはなんであり、どこからきて、どこへゆくのだろう?」
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」には、ゴーギャンほどはっきり文章化してはいないが似たような想いに主人公がとらわれる場面があったように思う。昼間、仕事に行かない主人公が都会の雑踏の中、どっか少し高い所に腰掛けるなどして、絶え間なく行き交う通行人を眺めている。
すると「この人たちは、なんでこんなに忙しく動き回り、どこへ、なんのために行くのだろう?」と普段は思ってもみない、日常を超えた不思議な感慨にとらわれる。
西洋では、ゴーギャンの「想い」を初めて、このような「言葉」として形にしたのは文献としてはギリシャのプトレマイオス(天文学者とは別人)に遡るそうである。
キリスト教がローマ帝国の国教として認められ全盛期を迎えた時期と重なるといわれる。
それは、「グノーシス」「グノーシス主義」と呼ばれる思想流派として当時かなり広い層に流布していたそうだ。
グノーシスは「認識」「知る」といったような意味をもつ古代ギリシャ語の普通名詞。
グノーシスについて、まだ語るほどの知識をめのおは持たないが天地創造について、また「悪」の起原についてグノーシス派と呼ばれる人々が思索を巡らせたということに興味がある。
宇宙とこの世界とを創造し給うた神の上に、さらに「至高の神」が在るとするのがグノーシス派に共通している。キリスト教の一派なのだが正統キリスト教からは異端とされている。なぜなら神が創造し給わった「この世」は悪であり、善なる世界は「至高の神」が司るこの世を超えた「彼岸」にあるとグノーシスたちは信じたからである。
大きくグノーシス派にはエジプト系とイラン系とがあり、エジプト系は正統キリスト教のように神が宇宙を創り給うたのであり、闇と悪はもともと善なる天使リュシフェールが堕落したものとするに対して、イラン派はマニに代表される、善と悪は二つの対立する宇宙の根源として最初からあったとする説をとった。
マニはゾロアスター教と同じ地方の出身なので善悪の起源に関しては同じような思考をとった。マニ教はキリスト教神学の父とも呼ばれるべきアウグスチヌスが若い頃6年間も信者となったことがあり、後世12世紀から13世紀にかけて北イタリアと南フランスで流行した「カタリ派」に引き継がれてゆく。
カタリ派は異端としてローマ・カトリックから厳しい弾圧を受け、「アルビ十字軍」としてフランスの北から軍を差し向け、転向しない信者を火炙りにした。カタリ派の最後の拠点はピレネーにある「モンセギュール」という山の上にさらに突き出た小高い岩の上に築かれた城塞であったが、ついに落城した。
信者たちはひとりも信仰を捨てることなく全員が進んで火の中に身を投げた。
めのおは昨年5月、「カタリ派」に興味を持ち調べて書いた記事を、もうひとつのブログ「アトリエ・そうりん」に投稿したので、興味ある方は是非覗いてみてください。
カタリ派について - その1
カタリ派について - その2
カタリ派について - その3
カタリ派が日本人のめのおに興味があるのは、彼らが
1)菜食主義者だったこと
2)輪廻転生を信じたこと
3)宇宙の創造と善と悪の起源に関しては二元論だった
ことなどが挙げられる。