小学生の時、学校から放射能についての展示を観に行った。
広島、長崎の原爆の地獄の悲惨が写真を通し少年めのおに強烈な衝撃を与えた。
会場の出口には、放射能の平和利用の例として、放射線をあて品種改良され成長が速くなった稲の写真が飾ってあった。
ちょうど、第五福竜丸事件の直後だった。第五福竜丸事件というのは、1954年3月1日、米国がビキニ環礁で行った水爆実験の放射性降下物(死の灰)を日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が被り、船員28名全員が被曝した事件である。
被曝した時、第五福竜丸は米国が当初指定した「危険水域」外で操業していた。実験間際になり米国は危険水域を広げた。第五福竜丸以外にもマーシャル諸島付近に居た多数の船が降灰を受け、被曝者は2万人に達したと推定されている。
第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんは半年後の9月29日に血清肝炎で死亡し、28名のうち8人が退院後亡くなられている。
小学校の先生から「死の灰」の話を聞いた「わんぱく小僧」どもは、校庭で遊んでいる最中ににわか雨が降ると「毛が抜けるゾ」と頭を蔽って駆け出したものだった。
放射能の恐怖は確実に子供の心に植え付けられ、その後、成長してからも「核の恐怖」となって頭から抜けることがなかった。核爆弾が炸裂し、世界全体がまばゆく強烈な光で輝いて眼を焼き、すべての形を成す物というモノが蒸発し地表に影だけが残る・・・そうした「世界の終り」のイメージを反芻しては恐怖に胸をちぢめ、脳を震撼させていた。
しまいに、そのイメージは麻薬のように、怖くはあるが、一日のうちに数度それを思い浮かべずにはおられず、そのまっ白く世界が空になるイメージを思い浮かべることが快楽でもあるかのように繰り返し反芻する依存症の様相さえ帯びてきた。
1960年の日米安保条約改定の年には、核を積んだアメリカの空母や原子力潜水艦が日本の佐世保や横須賀に入港し、秘密裏に立川や横田の空軍基地に核兵器が配属されている。東京は一朝事あれば核攻撃に晒される・・・とアンポ反対のテーチ・インで聞き、恐怖はさらに身近なものとなった。
日米安全保障条約は日米の単独講和条約に署名した同じ日に吉田茂首相が唯独りの決断と責任を負って(随行の後の首相池田さんの申し出を退け)署名した条約である。A級戦犯で巣鴨刑務所に入れられていた岸首相が朝鮮戦争など極東の政情変化とアメリカの日本への再軍備の要請のため釈放され、1960年改訂安保条約を強行採決により可決させた。
最近になり、岸・佐藤兄弟首相が所持していた日本への核の持ち込みを承認する秘密文書が発見され、この公開を巡って一時的にマスコミが取り上げたが、今は音沙汰なく曖昧のまま闇に葬られようとしている。少年めのおが抱いた核持ち込みの不安は、根も葉もないことではなく実際に基づいていた。
「非核三原則」と沖縄の平和的返還により佐藤首相はノーベル平和賞を受賞したが、あの日本の歴代首相の中では珍しく美男子で歯並びの奇麗な笑顔もよかった首相は一生国民を騙し続け、嘘を隠し通したんだなと思うと政治家と「ウソ」の宿命的な結びつきさえ感じる。
高一でアンポ粉砕の国会デモに参加したのは、日本を負かし占領していたアメリカ軍への民族感情と核への恐怖からだった。高校を卒業した年にキューバ危機が起こり、フルシチョフのソ連とケネデイーのアメリカとがキューバのミサイル基地を巡り、それこそ一触即発の核戦争の危機を瀬戸際で通過した。
米ソ二極体制の世の中で青春を送っためのおの世代は「核の恐怖」と「アポカリプス」を抜きにしては、その心底が語れない。今見えている世界が仮象ではあるまいか?いつか、この世界は吹き飛んでしまうのだ・・・といった空虚感と切り離して、この世代の考えや振舞いを説明はできない。
恥ずかしい話、めのおがこんな田舎に住んでるのも、都会ではいつ核攻撃に晒されるかわかったもんでないという恐怖心からなのである。作家の野坂昭如が同じことをどこかで書いていた。スイスには民間の核シェルターが方々にある。
フランスでも、もっと南へ下ると、大陸間弾道弾の発射基地が山に隠れ地下に建設されているので、油断はできない。もっともピンポイントで狙える新型の核弾頭が開発されてからは大陸間弾道弾はオブソレート(時代遅れ)なものとなったが。
フランスもサハラや南太平洋で核実験を繰り返して来た。核実験の禁止条約を提案しておきながら、これが最後だからと世界の批判を押し切って実験を強行した。理由は、このピンポイント核爆弾の実験が必要だったから。シラク大統領の時代だった。
第二次世界大戦中、ロス・アラモスの砂漠で極秘裏に行われた「マンハッタン計画」の成功以来、人類は核とともに生きざるを得なくなった。多大の予算を注ぎこみ、超一流の頭脳を集めて遂行された計画は、ウラン235の核分裂の連鎖反応を利用した原爆と、ウラン238の原子核に中性子をぶつけて吸収させプルトニウムを生み出した。人間は自然界に存在しない物質を創り出してしまったのである。
プルトニウムはダイオキシンと並んで人類が創り出した最悪の物質と呼ばれる。
核分裂の連鎖反応により放出されるエネルギーと破壊力のほかに、この爆弾は恐ろしい放射線を半径数十キロに渡って振りまく。アルファー線、ベータ線はそれほど透過力は強くないがガンマ線は鉛で10cm、コンクリートで50cmの厚さを貫いてしまう。
中学までは科学者になると信じて疑わなかっためのお少年は高校へ入ると科学者を人類の敵と信じ憎むようになった。科学者には絶対なるまい。もっとも、なりたくても数学がいつも落第点ではなれなかったのだが。憎さ余って数学は絶対予習復習などしてやるものかと反抗していた。
第一幾何学の最初に出てくる「公理」というやつが信用できなかった。
「位置だけあって大きさのないのが点」「長さだけあって幅がないのが直線」だって・・・? 大きさのないものが存在するわけがない。
素粒子だって大きさがあるから存在する。数学の教師は在りもしない点を出発点に大学受験に最重要だから数学を、ユークリッド幾何学の公理の抱える矛盾を反省しても見ずに教え続けるのか?
めのおは、放射線を恐れるがゆえに、怖いから目をつぶり、なにひとつ知らないことに今になって気づいた。これから数回に分け、まず放射性物質発見の歴史を調べてみようと思う。理科系の人には常識すぎて笑われるに違いないが、高校の時怠けて見過ごしたことを今になって学びたいと思うので似たような思いをお持ちの方はお付き合いください。
まず「ウラン」を発見したのは誰だろうか?
クラプロートというドイツの化学者
Martin Hainrich Klaproth ( 1743.12.1 ~1817.1.1)
フリーで入手できる画像はたったの2枚しかなく、大きめのはこれしかない。
どちらも特異な風貌をしておられたこの化学者を写している↓
ドイツの田舎町で薬局の助手から出発。1768年ベルリンへ出る。
1810年にフンボルト大学(ベルリン大学)が創設されると初代の化学の教授となった。
ウラン、ジルコニウム、セリウムの発見者。
1789年 ピッチ・ブレンドから酸化ウランを精製し、新元素であると結論した。
ピッチ・ブレンド(pechblende 瀝青ウラン鉱)はピッチ状の油脂光沢をもつのでこう命名されている、黒色の鉱石で二酸化ウランUO2 を含み「閃ウラン鉱」とも呼ばれる。
ウランが崩壊した結果として少量の「ラジウム」を含む。
フランスの物理・化学者ピエールとマリー・キュリーがラジウムとポロニウムを発見したのもこのピッチ・ブレンドからだった。昨日パリの「キュリー博物館」を訪ねると、ちょうどピッチ・ブレンドが展示してあったので写真を撮った。ここはキュリー研究所と病院の中にあり入場無料、写真撮影も許可してくれる↓
クラプロートはテルルとチタンの発見を確認し、これらの元素の命名者となっている。

