今からちょうど70年前の1940年5月15日、ナチス・ドイツの機甲師団は、フランスが難攻不落の防衛線と信じていたドイツ、ベルギー、イタリーの国境線に築いたマジノ線を迂回し、アルデンヌの森の樹木を戦車でなぎ倒し、ムーズ川を渡ってフランスになだれ込んだ。シャルル・ド・ゴールは当時49歳の若き将軍だったが、ロンドンに亡命し、チャーチルの支持を得て、「自由フランス」を結成した。
ナチスと停戦協定を結び、協力の方向を見せるペタン元帥を主席とするヴィシー政権に対抗し、最後までナチスと闘うためである。
1940年6月18日、BBC を通じド・ゴールはフランス国民に呼び掛けた。「こちらはロンドン・・・」BBCからフランス語が流れた。この放送こそが、現代のヨーロッパ、とりわけフランスの姿を決定する第一歩となった。
今日、2010年6月18日、初の英仏合同の記念式典がロンドン郊外のカールトン・ガーデンとロイヤル・チェルシーで開かれた。カールトンには チャールス皇太子がサルコジ大統領夫妻を迎え、チェルシーではダヴィッド・カメロン首相夫妻がフランス大統領夫妻を迎えた。
ド・ゴールは、第一次大戦でフランスを勝利に導いたフランスの国民的英雄ペタン元帥のマジノ線構築という戦略にそもそも反対だった。ド・ゴールは現代戦は航空機、戦車を主体とする機甲軍団であるべきだと早くから主張していた。
ドイツ、特にナチス・ドイツは鉄壁の集団規律を重視し、全体主義的に襲いかかるの
で、ヨーロッパの大陸側の国はすべて屈服した。中でフランスだけがかろうじて抵抗していた。それも、崩壊したため、チャーチル率いる英国が、決して決して決してギヴアップするな!自由を擁護するため最後まで戦えと、ルーズヴェルトのアメリカ合衆国を参戦させ、さらにスターリンのソ連までも味方につけ、ついにナチス・ドイツを叩きつぶした。1940年にチャーチルはド・ゴールと協定を交わし、「自由フランス」をフランスの正当な政府と認め、ド・ゴールに財政援助を与えた。ド・ゴールは、軍事費は前借させて頂くが必ず返済すると主張し、約束を守り返済した。
ド・ゴール将軍を首班とする「自由フランス」はカールトン・ガーデンの一室を借り、そこをQG(本営)とした。祭典では、チャールズ皇太子とサルコジ大統領とがジョージ6世とエリザベス女王の銅像に花輪を捧げた。
チェルシー王立病院(Royal Hospital Chelsea )ではチャーチルの娘さんも出席した。
カメロン首相とサルコジ大統領が交互に演説し、ロンドンにあるシャルル・ド・ゴール高校の一男生徒が6月18日のド・ゴールのBBC放送のアピール全文を朗読した。
ド・ゴールはこのアピールで、ドイツは航空機と戦車を主体とする機甲師団でフランスの防衛線を撃破した。フランスは戦闘に負けたが、この戦闘が最終的なものではなく、フランスは孤立してはいない。この戦争は世界大戦であり、フランスの背後には英国と、巨大な産業力をもつアメリカがついている。われわれはドイツを上回る機甲師団を組織し、反撃に向かうであろう。フランスの抵抗の炎は決して消えることはない。
BBCのこの放送を聴いたフランス人は少数だった。ラジオが普及していなかったこともある。当初ド・ゴールの呼びかけに応じた軍人は少数だった。しかし、英仏海峡にある小さな島の男たちの全員130人はボートに乗り、ロンドンの自由フランスに合流した。(自由フランスのロゴはロレーヌの複十字。ロレーヌはジャンヌ・ダルクの出身地)
ド・ゴールが世界大戦と呼んだように、自由フランスはヨーロッパだけでなく、アフリカの植民地、チャド、カメルーン、コンゴさらにインド、ニューカレドニアなどの支持を得て、1940年12月には27000人に膨れ上がった。
さらに1941年になり、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、エジプト、ニカラガ、ハイチ、香港、パレスチナ、中国にまでも支持者を得ることが出来た。
注目すべきは、ド・ゴールの呼びかけに応じてロンドンへ志願した少年たちだ。14歳から18歳の少年たちが、各自4・5人ずつボートに乗り、家族と学業を投げ打ち「祖国の名誉と自由のため」にド・ゴールの許へ集結した。その数は211人といわれる。
彼らは軍事教練を受けてもいず、ただ祖国の解放のために戦いたいという熱意、サルコジ大統領の言葉を借りれば精神的な力( Force spirituelle )だけを基に馳せ参じたのだった。
初めはボーイ・スカウトとして集団行動の訓練を受けた。やがて某貴族の館を寄宿舎として士官学校が組織され、英語、数学、モールス通信、戦闘・戦術理論などの座学と並行して軍事訓練が施された。
211人は少年士官( Cadet )として、レバノン、リビア、シリアなどの戦場に赴いた。うち48人が戦士した。すべてボランテイア(志願兵)だったことが胸を打つ。
彼らは、ある価値を信じ、その価値のために若い命を捧げた。その価値とは「文明」であり「自由」であった。
日本が敗戦の色濃くなった頃、自暴自棄的戦術として「少年特別攻撃隊」を組織訓練し、敵艦に体当たりをして米兵に恐れられた。「神風特攻隊」の名は現在も欧米ではKAMIKAZE とイスラム原理派などの自爆テロを指して使われる。
散華した彼らは、17・8そこそこの若者だった。
祖国に命を捧げた意味では自由フランスの Cadet たちと変わりはない。しかし神風の若者は東洋文明なり、日本の歴史と文化なり、建国から連綿と続く天皇制なり、命を捧げるに値する価値を信じて散華していったろうか?
強制され、逃れるすべがなく仕方なく死んでいったと思われてならない。それだけに彼らの死は悲劇であり、痛ましい無駄死であり、悲哀を伴わずに思う事が出来ない。
チェルシーでの演説でサルコジ大統領は「1940年6月18日のド・ゴール将軍のBBC放送によるアピールが無かったなら、フランスは英米もしくはソ連の植民地になっていたであろう。その意味で、この日の放送と、自由フランスの組織化は真のフランス再建の始まりであり、英国国民の友情とチャーチルの断固たる意思のお陰で独裁者を葬り祖国に自由を取り戻すことが出来た。なによりも、あの闘いは自由とデモクラシーのための戦いだった」と言葉を結んだ。
今月、2010年6月はナチス・ドイツのフランス進攻から70年目。
連合国によるノルマンデイー
上陸作戦より66年目。
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