「綺麗だね、空。」
土手で右隣に座っていた奈々の声ではっと我にかえった。
「そうだね、紫の空。」
何のひねりもないオウム返しのような返事をするのが、私の今できる精一杯の言葉だった。風は全く吹いていない。
「紫?」
「え?」
「紫じゃないよ、ハル。ほら、ちゃんと見て、あそこ。」
奈々の指差す先を見る。頭が重い。
「あ、緑色。」
「そうだよ、ハル。よく見なくちゃ。空はさ、気分屋なの。毎日、ううん、ちがう、一分一秒で機嫌が変わるの。だから、あの緑色が現れたのも、それから、あの緑色が消えるのも、全部一瞬。」
奈々が何を言いたいのか、私にはわからない。そんなことよりもさっきから、目の前が暗くなったり明るくなったりしている方がよっぽど気になる。
体調がここのところ悪くて、ずっと奈々の誘いを断っていた。奈々はその度に気遣ってくれていたけど、私にはそれが悪い気がしてどうしようもなかった。だから今回はちょっと散歩だけでも、という奈々の誘いにのったのだけど、やっぱり失敗だった気がする。
「ハル?」
「ん?」
呼ばれた声にようやく奈々の方を見た。横顔からみてとれるいつになく真面目な、ちょっと儚い表情。
切れ長の目。ややつり気味。こじんまりした鼻と口。一見きつい顔立ちに見えるけど、笑った時の顔は誰にも負けないくらい可愛らしい。そんな風に見える同い年、同じ誕生日の、赤の他人。細い、整った髪が彼女の輪郭にそって流れている。
奈々はこちらを見ないまま言った。
「ハル、早く、元気になって。」
「え?」
「ハルが、元気にならないと、私、辛くて、おかしくなりそうだよ。」
義之が、交通事故に遭ったと聞いたのは2週間前の夕方だった。部活からかえってパソコンでメール画面を開いたら『緊急』とつけられた題名のメールが入っていた。
「加藤義之が交通事故でなくなりました。明日、17:00よりお通夜、翌日10:00よりお葬式です。何かあったらこちらまでご連絡ください。
090-xxxx-xxxx (井上拓真ケイタイ)」
最初は何のことかわからなかった。
何の冗談かと思った。だから私は焦っているフリをしてすぐに井上に電話をした。
「ハイ。」
「井上?あのメール何?」ちょっと笑いをこらえながら。
「・・・。」
「井上?えー?ちょっとー?」
「メールの通りだよ。藤原はどっちいくの?俺は両方行くから、行くならのっけてやるよ。」
「は?何?冗談でしょ?ちょっとー、・・・。」
「まぁ、決めておいてよ。今日、遅くまで起きてるから、何時でもいいしさ。連絡して。」
「え、あ、うん・・・。」
「じゃあ。」
「じゃあ・・・。」
それからはよく覚えていない。気づけば私は両方に出席していた。
加藤義之、私と菜々、井上と四人で小さいころからバカばっかりやってきた仲間だった。中でも私と義之は遊びにしても、勉強にしてもいつも競っていて、かと思えば辛くなったときや悩んだ時にはお互いに相談し合った信頼できる関係だった。男女の友情なんて成立しないってよく言われたけど、私と義之に限っては間違いなくそこに友情が成立していた。
大きな大きな箱に入った義之の顔は、正直、見ても誰かわからなかった。それまで洪水のように溢れていた涙は、その顔を見た瞬間にぴたっととまった。隣に付き添ってくれていた菜々の方を見て、
「誰?これ?」
と聞いた。それを聞いて奈々が泣いていたのは覚えている。
それから私の体調は優れない、と奈々はいう。そんなつもりではないのだけれども、私も時間の感覚がわからなくなっている気がするから、もう何が本当なのかはわからない。
「ハル・・・。」
膝を抱えてうつむく奈々に、私は罪悪感を感じていた。
「ごめん、菜々。」
重たい腕をあげて、奈々の頭に手を載せてみた。びっくりしてこちらを見た奈々は、顔をくちゃっとして私に抱きついて激しく泣いた。
ああ、ごめん。
と声にならない声で言った。
「菜々、ハル!」
遠くから聞こえる声。奈々は顔を上げてその声の方を見る。私も奈々からそちらに視線を移した。走ってくる背の高すぎるその姿は、見慣れた、だけども久しぶりのような姿。
「井上・・・。」
「菜々、ハル!今、義之の家に行ってきたんだけど・・・。」
息を切らして走ってきた彼の片手には紙袋が握られていた。
「これ・・・。義之のお母さんが・・・。きっとあんたたちのだって言って・・・。」
奈々がその袋を受け取る。
そして中身を出す。
「あ。」
そこには絵が書かれていた。
土手沿いに並ぶ3人の座った後ろ姿と
妙に縦長の一人の男。
その背中越しに見える
大きくて美しい
緑色の空。
私は空をみた。
いつの間にか緑一色に染まる大きな、雄大な空。
「ハル・・・これ・・・。」
「うん。」
その絵を見ていると
何かが左肩に触れた気がした。
ちょっと温かい安心できる感触。
「菜々・・・。」
「何?ハル。」
「義之は、ちゃんとここにいたね。」
私は空を見つめながらそう言った。
奈々は多分笑顔になったんだと思う。
「うん、そうだね。ここにいたね。」
声がちょっと明るかった。
「なんか、俺も嬉しかったらさ、お前らにみせないとって思ってさ。」
「ありがとう、拓真・・・。」
「じゃー、井上、菜々、今日はこのままカラオケにいこうか!久しぶりに!」
私の誘いに二人はちょっとびっくりしたような顔をしたあと、顔を盾に振ってくれた。
「ジャンカラにするー?」
「今日はシダックスで豪華に・・・。」
「豪華っていうか、それー。」
「いいじゃん、いっつもクーポンどうのこうの言ってる人がそんなことよくいえるよねー!」
「はー、うるせーし!」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
いつの間にか頭の重さも、体の気だるさも、貧血のような感覚もなくなっていた。
私はふと空をみた。
空はそう、もうすっかり真っ青になってさっきの緑色なんて誰も信じてくれないような機嫌になっていた。
多分、もう緑色のそらなんて見ることはないと思う。
だってもう、そんな不安定な機嫌になることはないから。
もう大丈夫だから。