夕焼けになる前の、不穏な風が好きだ。何だか体の全部が透明のシートに覆われているもので、周りに何もかもが見透かされているような気がするからだ。少し落ち着かないけれど、その風邪を吸い込んだら瞬く間に体内が満たされる。吸った勢いで体中を駆け巡って、そしてストン、と重みのない物質としてそこに鎮座するのだ。
平らなお腹をさすりながら、風通しのよい河川敷を歩く。
あと、1ヶ月。
だった。
予定日12月。寒い冬にこの世の空気を吸うはずだったモノが、私のお腹にはいた。
たった2ヶ月の間。まだ、形すら出来ていない小さなミクロ単位の細胞。
相手は大好きな人だった。
大好きで大好きで、心から愛している人だった。
この細胞のことを告げる時、私はこれからの生活を心配した。
一体なにをどうしていけばいいのか、何が変わっていくのかが不安で
未知の世界だった。
それを二人で考えていけるものだと、思い込んでいた。
ぷにぷにした自分の皮膚を、初めて愛おしいものだとおもった。
でも、ちがった。
私のことを考え、その大好きな人は細胞を切り取ることを望んだ。
何度も話し合った。
いろんなことを考えた。
でも何も見えなくて、悲しいばかりで、恐怖しかなくて
私も不安の中、何が真実かもわからず
愛おしい気持ちのまま、サヨウナラをすることになった。
あれから7ヶ月。
私のお腹はある一定の日になると違和感を感じるようになった。
まるで、その細胞が戻ってきたような、そんな感覚。重たい、気持ち悪い感覚。
そしてよく、夢を見るようになった。
お腹が大きくなっている私が笑って誰かと話をしている様子。
楽しそうで、幸せそうで、目覚めるたびに泣けた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
あのとき、全部なくしてでも大切に守っていっていたら。
全員に反対されても、納得行く道を選んでいたら。
これが人生で初めての後悔だった。
それから、もともと東京出身だった彼とは連絡が途絶えがちになって疎遠になった。
今、きっと彼は新しい彼女を見つけているのだろうと、情けないながら妬ましい気持ちで考えたりする。
今でも忘れられないあの笑顔は、もう私の方には向かないのだと。
悔しくてならなかった。
それほどまでに、好きだった。
どうして、私はこんなに未練があるのだろう。
あんなやつ、あんなやつ。
そう思えば思うほどに辛くて、彼が許せなかった。
そして今、その大きいはずだった平らなお腹をさすりながら
この冷たい、不穏な風を一気に吸い込んでいる。
そして最後に体いっぱいに吸い込んだところで
いっぱい
いっぱい
涙が出てきた。
涙がでて、涙が出て、嗚咽が出てきて、苦しくなって
私は大声で泣いた。
たった一人で。
そして一通り泣いたところでふと思った。
許せないから、許さなかったら
私は一生悲しいままじゃないのか。
と。
昔ある人が言っていた。
許すことが、最大の勇気だ。
いままで私は後悔なんてしたことがなかった。だから人を許さないなんてこともなかったし、まずこの恨みにも似た執着を持つことなんてなかった。自分が納得して、失敗したら自分のせい。そうやって判断してきた。
許す、ということは簡単だと、だから思っていた。
私は、今、幸せにならないといけないんじゃないか。
そう感じた。
悲しみは悲しみを連鎖させるし、不幸は不幸を連鎖させる。
だからこそ、許さないといけないんじゃないかと
そう思った。
何故か、今、急に、この風のおかげで。
「許す、って難しいんだな。」
わかってはいるけれど、悲しくてどうしようもない。
その気持ちは変わらない。
でもそれはそれでいいんじゃないか。
それは私の過去として、しっかり背負っていけばいいんじゃないか。
例えそれが愛おしくても、苦しくても。
そしてそれは、今からでも軌道修正できるんじゃないのかと。
許すっていうことは
現実を真正面から受け止めるということ、と同義語なんじゃないかな。
受け入れて、それが今この時を生きている現実だと
そしてそれはもう変えようのない過去であり
私が生きていくのは未来なんだと。
前を向いている人にはきっとYESを与えてくれる。
カミサマってそういうものじゃないのかな。
何が正しかったかなんてわからない。
何が、だれがじゃなくて、それを受け入れる。
ただあった現実を受け入れる。
今と、未来を変えていくために
幸せになるために、ちゃんと前を向かなくちゃいけない。
愛おしい愛おしいあの人は一体なにをしているんだろう。
幸せになって欲しい。
私も、ちゃんと幸せになろう。
足元を大きな犬を連れた腰の曲がった、背の小さいおばあさんが通り過ぎる。
「お嬢ちゃん、風邪、ひいちゃうよ。」
きっと、彼女からみたら私もまだまだ赤ん坊。
かわいいかわいい赤ん坊が泣いててはいけない。
またあした、ここに風を吸い込みにくる。
私は平らなお腹をさすりながら思う。
そしてまた泣くだろう。
でもその時には、風が私の体内を巡って、サラサラになって
すっと体外へ出ていく、そんな呼吸をしよう。
黄昏時、寒すぎるほどの気温の中、私は家路へ急いだ。
誰も待っていない家に。
