遠くで
何かが軋む音がした。
錆び付いた鉄が想像を絶するほどの圧力で
擦れ合う音。
ギギギギギ
ギ、ギ、ギィィィギギギギ
いつもは遠くに感じていただものが
この日ははっきりと音として聴こえた。
私はとっさに持っていたワイングラスを握りしめて
周囲を警戒した。
ギギギギギギギギギ
ギィィィィギギィギ
怖い。
たったひとり、この屋敷に住みだしてもう3年になるが
こんなに気を張り詰めたことはなかった。
そういえば、
この屋敷はこんなにシズカだったんだ。
ギギギギギ
ギギギギギィィィィ
ギギギギギギギ
ギギギギギギギ
ギギギギギギギギギギギ
その音はだんだんと大きくなり
ギギギギギギギギギギギギギギギ
そしてついに
耳元で
ギ
といって
音は消えた。
怖かった。
とても。
何者かわからない者が近づいてくる恐怖。
どうなってもいいと思ってここに住むことを決めたのに。
最初から言われていた。
ここは怖い場所だと。
入るヒト入るヒト、すぐになにかわけのわからないことを叫びながら出て行ってしまうと。
それでも私はここがいいと思った。
怖くたって
辛くたって
たったひとりだって。
ここが最後の場所だというのなら
それでいいと思った。
それでも
とても。
怖かった。
最後の場所ならば
いつどうなったっていいはずなのに。
最後の場所ならば
守るものなんて何もないはずなのに。
たって一人でもなにも思わないはずなのに。
自分自身の感覚に戸惑いながら
ワイングラスをテーブルにおき
ソファに腰掛け
顔をあげると
目の前に女の子がいた。
可愛らしい目の大きな赤いワンピースを着た女の子。
ちょっと笑った顔をシテイタ。
突然の来訪者にびっくりはしたけれど
私はとても冷静で
「こんにちは。」
と声をかけた。
「あなたの名前はなぁに?」
そうすると彼女は答えた。
ギギギギギ
と。
錆び付いた今にも壊れそうな鉄の塊が無理矢理擦り合わせられているような
恐怖の音。
ギギギギギ
可愛らしい半分笑った顔から出るおぞましい声。
ギギギギギ
でも、私は怖くなかった。
むしろ安心した。
ああ、一人じゃなかったんだと。
彼女が微笑んだまま背中からナイフを出したのを見ていながら
私は安心していた。
ギギギギギ
ナイフの切っ先が私に近づけられ
そっと首の皮膚に当たる。
可愛らしい笑顔。
おぞましい声。
きっとこの子も一人だったんだろうと思う。
皆に怖がられ、逃げられ、迎え入れてもすぐに裏切られて。
どんなに悲しい想いをしてきたのだろう。
ギギギギギ
皮膚が切られ温かいものが流れるのを感じる。
それでもやっぱり
私は怖くなかった。
ずっと前から、私は一人じゃなかったんだ、と、思った。
自らひとりを選んだはずなのに。
もう、一人だと感じなくていいんだと、
傷つかずに済むんだと
安心した。
女の子を見つめ、その笑顔に私もちょっと笑った。
すると。
ギギギ・・・
ふと女の子は笑うのをやめ、怒ったような顔をした。
そして
「早く、死にたい。」
と言った。
涙を流しながら。
高い、女性の声で。
私の皮膚をナイフで突き刺したまま。
「早く、死にたい。早く、死にたい。」
その顔は
どこかで見たことのあるような顔。
長いあいだずっとずっと見ていた顔。
「一人になりたい。一人になりたい。」
怒った顔で涙を流しながら
彼女は言った。
ずっとひとりだった彼女。
きっともう本当は死んでいるだろう彼女。
ずっと仲間を探している彼女。
生きたくて仕方がない彼女。
一人になりたいと思っていると信じていた私。
本当は一人になるのが怖くて不安だった私。
最後だと思っていたのに
最後なんてもっともっと遠い世界のものだとどこかで鷹をくくっていた私。
そう。
彼女は
遠い過去に置き去りにしてきた、まだ小さい小さい、なにも知らないはずの、幸せなはずの、
私だった。
何年も時が流れ
幸せな時に置き去りにしてきた私は
寂しさと辛さと絶望に傷つけられ
感情も表現できない、
学習すらできないまま
ずーっと
たった一人ぼっちで。
ここで幸せを待っていた。
今まさに私を殺そうとしている彼女は
本当はただ
私を置き去りにしないで
と言いたくて
本当にただ
人生を本体の私とともに歩んで行きたかっただけなのに。
それすらも言えないほどに朽ちて錆びて歪になって。
「早く死にたい。一人になりたい。」
そんな彼女に私はもう謝ることしかできない。
「ごめんね。ずっとひとりぼっちにしてしまって。」
次第に深まっていくナイフの冷たさに意識を朦朧とさせながら
私はいった。
「ごめんね。ごめんね。」
そうして
最後の私の意識が切れるときに彼女はいった。
「さようなら。」
と。
次に意識が戻った時は病院の一室にいた。
両親がパニックのように
「秋子。秋子!秋子!」
と叫んでいる。
医者と看護師が私を取り囲み、
指を立てたり振ったりして反応を見ている。
そのうちに警察まできて
まだはっきりとしていない意識の私に懸命に話しかけている。
そんなことはどうでもいい。
窓に映る自分の姿を見て
クビに巻かれた包帯に気づく。
「ねぇ、これ、何?」
誰とも問わずに口にしてみた。
そして誰かが答えた。
「あたしよ。」
と。
高い、女性の声で。
きっと、幼い朽ちて寂れた私は
これからはずっと一緒にいましょうということすらいうことができなかったのだ。
これから私は幼い私が私に溶け込むまで
一生懸命生きていかなければ行けない。
辛く苦しいときでも
せめて自分だけは信じてあげないといけない。
たったひとりで耐えてきた私のために。
そしてこれからを生きていく私のために。