その秋、私は病院の一室で動かなくなった裕樹を茫然と見つめていた。
「午前4時22分、ご臨終です。」
そういって静かに立ち去った医師と看護師に襲いかかろうとする衝動を必死に抑えて、私はただ裕樹の静かな寝顔を凝視していた。
交通事故だった。深夜週末、こちらに帰ってくる途中での出来事だった。相手は二輪バイク。当事者二人共が、他界した。病院に運ばれた時にはもう意識は無くて。救命処置も何の意味も為さなかった。でも、最後に何故かほんの少し私の手を握ってくれた気がする。青信号、横断歩道を歩いていたにもかかわらずはねられた。と私は思っているが、本当は何も分かっていない。こんな時に、私たちの両親は海外に旅行中だ。連絡はしていない。もう、縁を切っていますので。私が婚約者ですから。そんな、どうしようもない嘘をついた。明日にはきっと誰かから話が通じて、両親たちは真っ蒼な顔をして帰国するのだろう。そして私は言うのだ。最後にあなたたちの名前を呼んでいたよ、と。
傷だらけの顔。でも、それだけを見ていたらまだ全然、死んでいるようになんて見えない。私は椅子に座って、裕樹の頬に手を触れてみた。もう、冷たい。だって、きっと殆どここに来た時には生きてなんていなかったんだから。そう考えたらなんだか裕樹に申し訳ない事をしたように感じて、手を放した。涙は、出ない。私って意外とクールなんだな、と思った。こんなにも長く連れ添ってきた相棒が息を引き取ったなんていうのに、出てくる思いは怒りだけ。人の死に慣れているような態度をとったあの医師と看護師に対する、暴力的な怒りだけ。寂しいという想いすら出てこない。
そういえば、こんなに裕樹の顔を見つめたのは何年振りだろう。いつも鏡越しだった。勝手に私が見てはいけないと感じて、温まりすぎないように、且つ冷えないように開けていた隙間。小さい頃はそんなこともなかったのに、いつの間にか裕樹と話すことさえ緊張するようになってしまっていた。
「…意外と睫毛、長いのね。」
思っていたよりも綺麗な顔立ちをしている。私の記憶では裕樹はスポーツ選手らしからぬ、ふっくらした顔立ちをしていた。けれど今よくみると顎は尖っていて、骨っぽい。言えば、ランナーのような顔立ちをしている。短く切られた髪、細くはしていないけれどほんの少しだけそろえられている眉毛。鼻筋は通ってはいないものの、だからなのか優しい印象を持つ。ピアスも空いてない耳たぶは、小ぶりだ。羨ましいな、と思った。
私は立ち上がり、裕樹が昔から愛用していたショルダーバッグ―毛糸製だアジアンパターンだ。もう結構伸びてしまっている。―を手に取った。そして、それを顔にあてる。ふわふわしていて気持ちいい。そして、裕樹のにおいがする。優しい、言葉と同じように甘ったるい匂い。それらは鼻を通って、頭に抜ける。ピンっと顔の皮膚が頭のてっぺんにひっぱられるような、突っ張る感じがする。それが心地いいような、不安になるような。私は、ざわざわし出しそうな気持ちを感じて顔から勢いよくバッグを離した。
と、その時、サイドポケットから何かが飛び出た。私はそれを手にとった。
『榊田春子様』
表にそう書かれていた。整っていない、何故かガタガタした字で。