今週の九条の大罪/第111審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第111審/曖昧の判断②




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九条の大罪新シリーズは沖縄が舞台、記者の市田について、九条と同行しているわけではないが同じところにいるらしい薬師前が、マッサージでセクハラらしきものを受けたところだ。


これだけ弁護士の知り合いがいるのだから相談すれば、という市田のはなしだが、じゃあ誰かっていうと九条になる。烏丸は恥ずかしい。たぶん、互いに少し好きだし、そういうはなしを出したくないのだろう。九条にまわしたら烏丸も手伝うことになるだろうが、そういう問題でもない。ポリシー的に近く、仕事もよくする流木という手もあるが、ヨシ!とはならない。どっちかというと九条かと。年も近いしな。


携帯をみると、公衆電話からいっぱい着信が。支援していたひとが出所しても携帯がないから公衆電話からかけてくることが多いそうだ。出てみると、「弱者の一分」の曽我部である。1巻を読み返してみると刑期は1年半ということで、それがもう出てきたらしい。

出所は少し前、迷惑かと連絡しなかった曽我部を薬師前がとがめる。生活に困ってるなら相談にのる、というはなしだが、住居や仕事は友達の紹介でなんとかなっているらしい。ただ、と曽我部はなにか言いかける。電話しながらも周囲の様子をうかがっていて、明らかにおかしい。そうしてあわただしく電話を切る曽我部を、切れてしまったあとで、薬師前が見たことない剣幕で叱る。地元の交友関係で捕まっていた曽我部である、とても心配なのだ。

ちなみに、曽我部の服のお尻のところには、丑嶋社長らしき人物が描かれている。


薬師前は九条に相談することに。薬師前はスピーカーで話しているが、九条はさすがにイヤホンなのかなこれは。

内容としては不同意わいせつ罪になるかも。同意していませんよ、という意思表示が難しい状況を利用してのわいせつ罪ということだ。なるほど。マッサージをしていて、げんに薬師前も、陰部を意図的に当てられている気がする、としか言えなかったわけである。そのような曖昧なシチュエーションを利用してわいせつ行為をしている、というわけだ。満員電車の痴漢もこれになるかな。

しかし向こうも証拠がないことを足場に否定してくるだろう。それを狙ってのわいせつ行為なのだから。


被害届を出せば捜査がはじまる。そのとき、警察から細部について聞かれるだろうが、それは大丈夫かと九条が訊ねる。大丈夫なのだが、さらに九条は付け加える。犯罪者を支援する薬師前が、こうして犯罪者を生み出すことについてはどう考えるかと。

市田は当然怒るし、薬師前も動揺するが、九条は戦う意志を確認しているだけだという。薬師前は、犯罪を肯定するわけではない。彼らにもう二度と罪を犯してほしくない、ひいては社会によりよくなってほしい、夜中にひとりでコンビニにいける世の中になってほしいからそうするのだ。



九条たちに部屋をとってくれたのは比嘉という男で、烏丸と同室だったのはどうも九条の勘違いで、別に部屋はあったらしい。相続に関する仕事を終えたところで、会社の顧問になってもらいたいと、今日また会うことになっていた。その比嘉が、強めの態度で、整体師の被害届を取り下げてくれという。彼の甥っ子なのだと。




つづく



またややこしいなあ…。依頼人の利益に反する行為は利益相反になってできないけど、この場合まだ比嘉の顧問にはなっていないわけだし、そもそも甥っ子については比嘉の利益といえるのか、よくわからない。



「曖昧の判断」とは、陰部の接触があったのかなかったのか、またそれは意図的なものだったのかどうかを法的に観測する状況のことを言っているだろう。そこに、さらに加害者が知人の親戚という外部の条件まで加わり、九条が十八番とする透明な、ゼロ度の解釈をより困難にさせるというわけだ。以前からそうだが、事件というのは罪があって罰があるという短絡でできてはいない。知的格差、勘違い、利害関係、野心、金、暴力などが複雑にからみあった果てに、ひとつの結論は現れる。とりわけ今回のように証拠がない状況では、複雑さは極まるだろう。


そして、そのような薬師前の告発は、女性が人間として生きる困難を訴えるときのものと同型だ。

今回は市田が、本人がそう言っているのだからという理屈で、あざけりをこめて言われる「お気持ち」ポジションを担っていた。そうした、「本人がそう感じた」という現実がなぜすすんで本人視点で語られ、またやはり嘲笑されるのかというと、それを測定するものさしを現存の社会がもたないからである。だから問題なのだ。たびたび引き合いに出すが、魯迅「狂人日記」と同じ構造の小説、チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』は、医師のカルテという究極の客観ともおもえる視座からキム・ジヨン氏の人生を観察しながら、じっさいにはそうではなかったということを描いた。






「カルテ」は、かつての自然主義作家たちが至高と考えたほど、客観性の高い描写術となる。それは、症状を患者から分離し、属人性を排除して、科学的にただ病気だけを抽出しようとしたものだからだ。もちろん、キム・ジヨンは小説であるから、厳密にはそれはカルテではないのだが、そういう視点で事態を理解しようという志向性はあったわけである。しかるに、そこにも女性差別は残る。これが暴いたことは、女性差別を描くことの不可能性だったわけである。


こうしたことが、薬師前が経験したような不同意わいせつの現場では起きている。現場を離れても、ほんらいであれば、薬師前の見解とマッサージ師の主張は等価であり、法的にもそう扱われるだろう。だがそこに至るまでのさまざまが、薬師前の態度をあいまいにし、ためらわせる。九条が訊ね、確認したのはそのことだ。法は、いかなる条件のもとでこの不均衡を突破するのか、曖昧さを正すのか、そういうことが明らかになってくるはずである。


市田にいまの仕事の動機を聞かれたときや、また九条にずけずけ失礼なことをいわれたときにみせる薬師前の歯切れの悪さも気になる。薬師前の自己評価は低く、自虐的な発言も多い。亀岡のように強くはないし、フェミニストとして前に出るパワーもない。犯罪者支援は、犯罪撲滅などの最終目的にまでいかなくとも、もっと近い場所では、要するに弱者支援である。つまり、彼女は内と外からみずからを守るため行動に出ている。その主体性が彼女をしっかり立たせるが、なにかそこにきまりの悪さのようなものも感じているようだ。たとえば、極端には、自己責任社会では弱者が弱いのはじぶんのせいである。これは、人間の強い弱いがそもそも社会的な目線からの公的な評価であるということを前提したとき、弱いから弱いというトートロジーになるので、自己責任論はみずからを戒める場合以外公共哲学的にはあまり価値をもたない思想だが、同時に、多様性を求め、ノマド化がすすんだ世界の、ある種必然でもある。そういう状況なので、弱者として身を守ろうと動くことに一種のやましさを感じてしまう場合があるのだ。薬師前からはそれがら感じられる。彼女は、みずからが女性差別の当事者としてふるまうことをためらう。そういう社会だから。じゃあどうするかというところでじぶん以外の弱者を救う。だから、今回のように動機を聴かれたり弱者(被害者)のポジションに立ったりというとき、戸惑ってしまうのである。




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