今週の刃牙らへん/第14話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第14話/大出血

 

 

 

 

わざわざ裸締めをほどいてまでして、ジャックは鎬昂昇の首筋にかみついたわけだが、試合前の武道家らしからぬウォーミングアップからして、ひょっとしたら鎬はなんらかの準備をしているのではないかとおもわれた。本部がしたように、強化繊維の服を着てくる・・・というようなことはできないが、なにか技術的な備えをしてくるのではないかと。

しかし、なんの準備もないのだった。少なくとも、嚙みつきが完了する時点まで、それは見られないのだった。

 

崩れ落ちた鎬の首から勢いよく血が噴き出る。これは死ぬやつじゃないか・・・。スーパードクターの兄が会場にいるから、ひとつやふたつ噛みつかれて死にかけるのも勘定のうち、ということなのだろうか?まあ、それもまた、試合前に睡眠さえとる「エエカッコしい」のバキを批判するものとしての、新しい武道家の姿として、ありといえばありなのかもしれないが。

このままでは死ぬかよくて敗北だ。鎬は立ち上がらなければならない。そこへ、容赦なくジャックの蹴りが襲いかかる。まだからだが低い位置にあるところへ、顔面へのローキックだ。すさまじい威力だろう。痛いとか意識がとぶとかそんな次元じゃなさそう。一般人ならまちがいなく一撃で死んでいる蹴りだ。

さらにすくいあげるようにアッパーのだめおし。鎬の意識がまだあるのが不思議なくらいの打撃だ。背中を向け、這って距離をとろうとする鎬の真上に、跳躍したジャックが浮かぶ。そして、うしろから首に向けてかかとをふりおろすのだった。

バキも克巳も渋川も、首が折れたと感じたようだ。ということは、折れたのだろう。首が折れても人間は動けるのか? 脊椎をやるのとはちょっとちがう意味なのか、よくわからないが、まだ鎬は動いている。そして、観客や実況が止めるなか、手をついてまだ立ち上がろうとする鎬の前にジャックがしゃがみこむ。実況のいうとおり、ここまでだ、生きてるうちに幕を下ろせと。

 

しかし試合は終わっていない。観客が拍手をはじめ、なんとなく終わりそうな雰囲気になったところで、鎬の左拳が閃く。残ったジャックの右の視力を、紐切りで奪ったのである。ジャックの眼前は完全に暗闇となった。だが、そこからの行動も早かった。まだ近くに残っている鎬の左手をつかみ、二の腕に噛みついたのである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

最大トーナメントでバキも腕の血管を切られて死にかけていた。鎬は首筋だけでなく、首の骨折と腕の出血、三つも致命的なダメージを抱えることになるのだった。

 

 

ちょっと前に、ジャックや鎬のありようは、「強さ」を求めるものなのか「勝利」を求めるものなのか、ということを書いた。現実問題、強ければたいがい勝てるし、勝ちの多いものは強いので、両者はあまり区別されずに用いられがちだが、厳密には異なる。たとえば猪狩は、もちろん弱くはないが、「強さ」においてまず名前があがるようなファイターではない。だが、「勝利」ということにかんする執念はすさまじかった。そういうことである。

ジャックも鎬も、まるでじぶんのからだを差し出すようにして相手の必殺技を引き出し、同時にじぶんの技を決めるということをくりかえしている。このやりかたで勝ったとして、ジャックは、また鎬は、「強い」といえるのだろうか。もしこのまま出血多量で鎬が死んでしまったら、あるいはなにかの加減で鎬紅葉でも治せないような紐の切れかたをしていたら、強いもなにもない、鎬は死ぬか再起不能になり、ジャックは両目の見えないファイターになってしまうのである。勝ちはするかもしれないが、そこに持続性や、技術体系の普遍性はないのだ。これを「強い」といえるのかという問題が、このファイトの要諦なのである。

ジャックは、もっとはやくから、そのときその瞬間強ければ、勝てればよいということをいって、そのための行動をとってきた人物だ。明日を見ないドーピング、効率無視のトレーニング、そして規範を逸脱した「オンナコドモ」の技術としての嚙みつき、すべては、いま・この瞬間勝利するためである。じゃあ論点になるようなことでもないのでは、というはなしだが、ぼくが引っかかったのは、彼が嚙道という技術体系を確立したというからなのだ。

 

ふつう、技術体系というと、誰もがコミット可能な普遍的なものを指す。ぼくもその意味で受け取ってきた。「誰もが」の意味が極端にせまいとしても、たとえば、文章や動画に起こしたりすることが可能な技術の束として、嚙みつきのセオリーを確立したと、そういう意味に受け取ったのである。たぶん、ほぼそういう意味なんだろう。だが、そこにはやはりジャックの個性というものが宿っているのである。ジャックの個性、ジャック的なものに突き動かされることで稼動する体系、それが嚙道なのだ。

それはいったいどういうものか。「ジャック的なもの」とはなにか、それが、「強さ」より「勝利」を求める態度なのだ。いわば、明日ありえた「強いじぶん」を捨てて、具体的には視力を捨てて、今日の勝利をとる、それがジャックの道であり、その哲学によってはじめて成立する技術体系が、嚙道なのである。


 

この点で、鎬昂昇もやはり規範から逸脱した人物としてあらわれた。くりかえすが、いくどもバキのあの、試合前のわざとらしいほどの睡眠、つまり「エエカッコしい」が触れられたあとの、鎬のウォーミングアップ、もっといえば本部道場を訪れるなどの準備期間である。武道家は、いつでも臨戦態勢でなければならない。だから、ウォーミングアップをしない。いつでも自然な状態でたたかわなければならないし、それで得た勝利以外に意味はない。バキ的なエエカッコしいの哲学を大雑把にまとめるとそういうことになるだろう。だがそれは、「ウォーミングアップをしてはいけない」ということを導きはしなかったはずだ。してもいい。明日通り魔に襲われることと今日の試合とはなんの関係もないからだ。ここに、体操からも学ぶ鎬の新しさがあったようにおもう。同様の流れで、おそらく鎬のなかには、そうした「エエカッコしい」への拒否反応もあったのである。いつかあらわれる通り魔に対応できることと今日の試合は関係ない、にもかかわらず、今日の試合を、それが行われると知りながら、偶然のトラブルのように受け取る必要はあるのか、それは怠慢ではないかと。それを「怠慢」と認識するところで、彼が「強さ」を求めるものか「勝利」を求めるものか分岐するわけである。

 

こうみると、雑なようでもあるが、要するに今回のはなしは、ジャック的なものの再評価ということになるようである。しかも、それを特殊なものとしないのだ。いったん、武術的な思考法を通過したうえでなお勝利を求めるというのがどういうことか、それが、両者の異なるスタイルによって描かれているのである。


 

 

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