『論語物語』下村湖人 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『論語物語』下村湖人 河出文庫

 

 

 

 

 

 

 

「生涯をかけて『論語』と向き合った著者が、『論語』に書かれた孔子の言葉を短い物語に。二五〇〇年前に交わされた孔子と弟子たちによるエピソードが、ドラマチックなストーリーとしてよみがえる。現代を生きるためのヒントがここに!刊行から八〇年以上経った今でも読み継がれる名著にして、「論語入門」の最高峰。「孔子の生活原理」を特別収録」Amazon商品説明より

 

 

 

『次郎物語』の下村湖人による、論語を物語化して解説したもの。講談社から出ていたものが今回河出文庫から出しなおされた。

 

下村湖人の『次郎物語』は、ぼくの読書人生では分岐点に位置する作品で、非常におもしろく読んだ記憶がある。小学生のころのことだ。当時、いろいろあって本を読み始めて、まず島田荘司などのミステリ、創元推理や創元SFなどの古典作品にどっぷりはまっていたのだが、同時にいわゆる文学作品もたくさん読んでいた。ところが、それらを島田荘司ほどに人生の愉悦としてとらえていたかというと、疑わしいわけである。井上ひさしや椎名誠、ねじめ正一とかはおもしろかったが、たぶんこれはもう少しあとのことの気がする。そのときはせいぜい夏目漱石が読めるくらいで、森鴎外とかは果てしなくちんぷんかんぷんだった。こういうなかで、『次郎物語』はおもしろかった。上中下と新潮文庫から出ていたはずだが、すぐにぜんぶ読んで、しかも読み返した記憶がある。こうした古い小説をちゃんと読みきって、しかもおもしろいとおもえた経験は、このときは大きかったのだ。

が、内容はまったく覚えていない。ほんとうに、なんにも覚えていない。似た経験として、同時期に井上靖の『しろばんば』にもはまった。これは井上靖の自伝的作品で、『夏草冬濤』『北の海』と続く、いわばシリーズもの、三部作である。これもすばらしくおもしろかったが、やはり内容は覚えていない。おもえば、大人になってから読んでいるトルストイの自伝シリーズも、おもしろく読んでいるのに、内容はというとうまく説明できない。この手の「幼年期の機微」を描いた作品というのは、じしんの経験との響きあいとともにおもしろく感じられるいっぽう、記憶されにくいのではないかとすらおもえてくる。

 

その次郎物語は、いまでいうビルドゥングスロマンということになるようで、下村湖人が教育系の畑にいるひとだということも今回はじめて知った。文学的に少年の成長を描くというよりは、それを通じて子どもたちを啓蒙していくような効果が最初から期待されてつくられた小説だったのだ。

本書は教育者・下村湖人が、「読過の際の感激に任せて(4頁)」、一瞬いっしゅんの言葉の集積で成り立っている「論語」を、それぞれ小さな物語に仕立てていったものだ。論語そのものは、物語のような形式で書かれてはいない。孔子の弟子たちが、かつて師はこう述べた、という具合に書いた断片的なものを集めている。漢文が難しいということはとりあえず考えないとしても、わたしたちにはそのくわしい背景を理解することはできないし、ときには解釈がわかれてしまうこともあるだろう。その間隙を、下村湖人が小説家としての能力を駆使して埋め立て、筋のある読み物に仕上げたわけである。であるから、本書は歴史的考証のようなことにはあたいしない。作者じしんがそういっている。この点は武者小路実篤の『釈迦』と非常によく似たスタンスである。作者はただ、くわしく本編を読み、誠実さを忘れず、あとはおのれの資質に任せた、というようなところだ。そうなったとき、果たして本書は(あるいは『釈迦』は)、ものごとの真実に向けて歩こうとする人間にとって不正確な地図になってしまうのかというと、もちろんそうではないわけである。ここで釈迦が出てきたのは偶然ではなく、論語や、あるいは聖書や仏典のようなものは、それを受け取ったものの内側でどういう花がひらくのかということがもっとも重要なのだ。そのうえで、論語はふつうに読むと外国語人には難しい。釈迦ではサンスクリットということになってしまうだろう。というところで、わたしたちは、下村湖人や武者小路実篤といった作家への信頼を経由して、これを間接的に受け取るのである。げんに、わたしたちの内側における開花が目指される宗教的な経験においては、わたしたちはごく当たり前にお坊さんや牧師さんなどの「宗教者」を通過するのである。孔子は宗教の教祖というものではないが、とりわけ「天」を通じて感得されるみずからの人生の道筋のようなものには、ほぼ同形の思考法が見て取れるし、無関係というものでもない。その、孔子と、媒介者と、わたしたちの三者における響きあいこそが、こうした経験ではもっとも重要になる。

 

自身教育者として日ごろから「論語」をよく推奨しており、本書解説も担当している齋藤孝は、こう書いている。

 

 

 

「『論語』の内容を頭で理解することも大切ですが、自身の内側から孔子の声が聞こえるようになれば、いつでも自分の力となってくれます。物語にすることによって、短い言葉からドラマが生まれ、読者の心の中に孔子が棲みつく、このことが『論語』を学ぶ上で最も重要なのです」(345頁)

 

 

 

中国の思想に頻出する「天」という語にかんしては、ぼくの知る範囲では孟子とカントを見比べたフランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』がおもしろかったが、こういうふうにそれでひとつ大きめの論文が書けるくらい、厳密には研究者によっても言い分が変わってくるもので、そうたやすく理解できるものでもないが、おおざっぱにいえば「ものの道理」というようなことになるかとおもう。通して読んで伝わることは、孔子という人物は、むろんたいへんな知性の持ち主であることは疑いないのだが、聖人とか超人とかいうよりはずっと平凡で、常識的であるということだ。あくまで、本書を通読したぼくのイメージ図ということになるが、なんというのか、じぶんの身体がこの世で動くにあたってかっちりはまるスペースのようなものがあって、それを探究していくのが、この生の道なのではないかと。「天」はレベルとしては神のようなもの、原理的にそこに解答はなく、ただ確信が訪れるのを待つ以外ないのだが、ともあれ、こうした思考の土台そのものは、誰の人生にも通じるものだろう。つまり、わたしたちは、孔子に教えを乞うというよりは、学びつつある孔子の姿に共鳴し、じしんの内側に微量の確信を探し当てるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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