今週の九条の大罪/第27審 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第27審/強者の道理②

 

 

 

 

新シリーズ「強者の道理」、ひったくりにあった京極というヤクザを九条が自由にしたところである。なぜ被害者の京極が捕まっていたかというと、ひったくりをしようとした佐久間という若者を京極のボディガードがボコったため、被害届を出されてしまったのだ。とはいえ、見たところ、誘拐したわけでもなく、いかにも正当防衛である。佐久間は示談には応じない構えだったが、京極の配下にある壬生が圧力をかけて届けを取り下げさせて、京極は出てきたのである。

 

壬生と街を歩く京極はあちこちの店から声をかけられる。どこの店にとっても上客で、お金を落としまくっているのだ。

京極は、なぜ九条の存在をもっとはやく教えなかったのかと壬生を責める。烏丸的にも京極との関係を深めるのはまずいようだし、たぶん壬生なりの配慮だった可能性はある。壬生としては、伏見組はそれとは別に弁護士がいるわけだし、教えるものでもないというのが建前の理由となるが、たぶんもっと複雑だろう。独り占めしたいという気持ちもたぶんちょっとはあったはずだし、加えて、プライベートのつきあいも深いので、京極と接続させたくないという気持ちもあったはずだ。あんな有能な弁護士、しかも友人付き合いに近いようなことまでしているものをヤクザの上司に紹介したくないよねそりゃ。

 

他の弁護士は、あの接見の場所で携帯電話を貸してくれるそうである。が、それは、烏丸がすぐフォローしたように、弁護士規定に反する。げんにそれでその弁護士も懲戒処分になっている。あれでちょっと京極と九条は険悪になったようにも見えたが、会話には続きがあった。ヤクザの通話履歴は定期的に警察にチェックされているそうである。だから電話のことはすぐにばれる。そしてそれは、九条だけでなく、京極にも不利益をもたらす。事件のことは問題ない、示談に応じなくても正当防衛は成立する、ただ黙秘してさえいれば20日で釈放となると。その前に、京極は知らないようだが、壬生が動いたおかげで京極は出てこれたが、ともあれ一連の動きを京極は非常に評価しているのである。「20日でパイ」の件もそうだし、そもそも、なにが不利益かを、京極の圧力に屈せず判定できるというのは、たしかにヤクザにとっては信頼の条件になるだろう。事物を測定する弁護士としてのものさしが、状況によって変わったりはしないということなのだから。

 

だが事件そのものはひっかかる。この街でじぶんがひったくりにあうのは初めてだと。たしかにふつうに考えるとありえないことだ。強盗は、腕試しをしたいわけではない。なるべくリスクの低い相手を、当然選んで犯行に及ぶことになる。強盗でなくても、痴漢や恐喝、ハラスメント系の行為など、相手の弱者性を見て取ったうえでとられる行為はすべてそうだ。だから、コンビニなどでも、耳のわいた巨漢バイトやギラギラにメイクをした女性、見るからにあたまがよさそうな青年などをひとりポンと置いておくだけで、強盗や万引き、珍妙なクレーマーは激減することになる。その意味では、刺青を隠さない京極を相手に選択するというのは、理に適っていないのである。佐久間が、餓えや、あるいは上納金や、とにかくなにかに追い詰められて、目の前にいたヤクザの買い物袋をとろうとした、という筋書きは、納得いかないのだ。そのあとの被害届の流れも奇妙である。京極は、誰かがじぶんをはめようと絵を描いているのではないかと、というか、それはお前ではないのかと、壬生にいう。前回の描写では、佐久間と壬生は初対面っぽかったが、でもよく考えたら、直接指示をしていないだけという可能性もある。つまり、佐久間は久我にいわれてやったのだが、久我は壬生の指示のもとに動いていたという可能性である。

それはわからないが、九条を紹介したのは壬生なわけだし、九条ならこの程度の事件はあっさり片付けてしまうことも見えていたはずだ。片付かなかったとしても、京極を陥れるにしてはいかにも小さい事件である。壬生は関与していないとみたほうがよさそうだが、京極は脅しを続ける。「あの日」のことを忘れてないよなと。

 

それは、壬生が京極のシマにあった賭場に盗みに入ったときのことだ。壬生じしんは参加していなかったが、実行犯がすぐ黒幕の壬生の名前を吐いたと。半グレは忠誠心がない、ヤクザはちがうと、誰かもいっていたことを京極もいう。

壬生は、いま働いている自動車整備の倉庫と同じとこっぽい場所に縛られている。横にさせられて、からだを起こせない状態だ。そこに、車の塗装をかわかすヒーターがあてられている。そのまま続けると血液が沸騰して死んでしまうという。このときの壬生はまだいまみたいな刺青をしていない。

壬生はキレ者だ。チンピラにも顔がきく。殺すには惜しい。京極は、忠誠心を見せれば許すという。謝る壬生に、京極は選択肢を投げかける。そばには、壬生の愛犬、小さなおもちがいる。子供のころからの心の支えだ。これを殺せと。できないのであれば、壬生が死ななければならない。ほどかれた壬生は、泣きながら金属バットを振り下ろす。

これは壬生の選択によって行われたことだ。といっても、もういっぽうの選択はじぶんの死なので、選択肢として等価ではないわけだが、ともかく京極は壬生の主体性によっておもちは死んだ、という呪いを壬生にかける。彼の命令で殺してしまうと、彼を恨むことでこれは解消してしまう。そうさせない京極の戦略である。

 

 

「壬生。お前が選択して殺したんだ。

 

俺の命令で殺したら俺を恨むことで解消しちまうからな。

 

生きる罪を一生背負え」

 

 

 

かくして壬生は背中の全面を覆うような、あのおもちの刺青を刻むことになったのだ。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

おもちの死には壬生のその後を決定するような重い事実があったのである。

京極があとで付け加えた言葉は、まさしく呪いだ。これは、たんに彼がしたこと(おもちかじぶんかで選ばせた)ことを「解説」したものではない。それを先にくちにしてしまうことで、仮に壬生が恨みや反論を抱えたとしても制限してしまうような効果をもたらす、重い言葉なのである。

選択肢というものは、比較可能であり、かつ等価なものでなければ意味がない。等価でないことによって隠された別の選択肢が浮き彫りになるというパターンもあるが(金の斧、銀の斧、隠されたもとの斧)、基本的には「買ったばかりの満タンのライターともうつかないライターあるけど、どっちがいい?」というような投げかけは、成り立たないというか、意味がないのである。

京極は壬生に、自分の命とおもちの命をはかりにかけさせた。壬生の刺青にはおもちの向こうに天秤が見えるが、これはこのときの状況を描いたものだろう。はかりを用いた選択の先に、おもちは失われた。だが、じっさいにはそうではない。「等価ではない」というと、おもちよりじぶんの命のほうが重いと壬生が感じた、というふうにも見えて、語弊があるが、もっといえば「比較不能」ということになるだろう。ライターの残り使用回数を比較するようには、おもちと自分の命を比較することはできないのだ。

愛が深ければ、それは「所有」の概念を超えたものになっていく。愛するものへの「感情」はじぶんのなかにあるものだが、やがては、愛するものが存在しているということそれじたいを、わたしたちは言祝ぐようになる。だから、じぶんの命を捨ててそれを守る、ということは、人生の局面でありえることである。だが、それを「選択」と呼ぶこともまた難しい。というのは、「トロッコ問題」同様、そもそもそのように選択しなければならない状況というのは、災害や事故のように、避けなければならないものだからだ。

そうしたわけで、京極の与えた状況は、選択肢などというのんびりしたものではなかった。天災のように、問題としてあらわれてはならない惨況をつきつけ、通常比較できない、比較可能だともおもわれない事物の優劣の判定を強いるものだったのである。これが「強者」の意味となる。京極が壬生に向けて行使した「強者」性は、こうして、ほんらい比較できないものごとを並べて天秤の両側に載せる行為としてあらわれたのだ。

 

だが京極は、それをあの「解説」を通じて、壬生じしんの選択、彼の物語として語る。壬生も、京極の強者性が、じぶんに理不尽な選択を強いたということは実感として理解しているはずである。だが、現実としておもちを殺したのは彼自身である。そこには、その直前までの拷問による苦痛と、それが予感させる死の恐怖もあったはずだ。じぶんが死ぬということが、リアリティをもってそこまで迫ってきている状況だったのだ。ふつう、じぶんが死ぬ、殺されるという事態は、非現実的なので、うまく考量することの難しい事態のはずだ。ところがあのときの壬生はそうではなかった。ぼくの少年時代には「「命」書ける?」といって命を賭けさせる言葉遊びがあったが、そういう次元ではなく、ほんとうにじぶんの意志しだいでじぶんが死ぬということが、間近に感じられていたのである。この状況でそれを選ぶことはまずできないだろう。にもかかわらず、京極はそれを「壬生の物語」にしてしまう。また、みずから手をくださせることで、壬生じしんの実感としてもそうであるということを重ねて確認させているのだ。

 

この呪いによって、壬生は「生きているだけで罪」の状況になった。いま行われている呼吸は、彼がみずからおもちを殺すことで持続しているものだからだ。背中に描かれた天秤は、京極がそのみぶりで示した「強者の道理」である。それに、おもちは奪われた。このおもちを、成仏することがない。なぜなら、おそらくおもちを弔うことのできる唯一の人物が、おもちを殺した壬生だからだ。行き場のないおもちは、京極にいわれるまでもなく、壬生の背中に宿るほかない。その表情はいまみると悲しげだ。強者の道理に囚われたままのおもち、それが、彼の背中に描かれている状況である。

壬生にそのつもりがあるかどうかはともかくとして、彼がこの「生きているだけで罪」を克服するにはどうすればよいか。それは、そもそものこの天秤をここまでもってきたものを、強者の道理をもって屈服させるほかない。復讐心はある種の永久機関である。仮に彼が京極を殺したとしても、おもちは戻ってこない。そのとき、復讐者は相手を見失ったボクサーのようにバランスを崩し、その感情の行き場をなくしてしまう。闇金ウシジマくん最終章で、獅子谷甲児が兄を殺した椚の両手を奪いながら生きながらえさせたのはそのためだ。椚を殺しても兄は戻ってこない。また、椚の命で兄の死とつりあいがとれるとも考えられない。もし椚を殺してしまえば、兄の生はそこで完結してしまうだろう。それを遠く理解していたから、彼は残酷にも椚を生かし、復讐を持続していたのである。

だから壬生は、ただ同じことをやり返し、魂のようなものを吸い上げ備給するような次元ではなく、原理のレベルで帳尻を合わせなければならない。強者の天秤を、強者として京極につきつけるのだ。これは、京極の呪いとも矛盾しない。うらみによる復讐とは異なるからだ。また、そのことによって「生きているだけで罪」が解消するということもない。彼がみずからの手で愛犬を葬ったという事実は消えないのだ。しかし、だからこそ行為としては強いだろう。目的意識としておもちの面影があってもよい、彼はただ、強者になればよいのだ。

 

京極としては、強者の天秤を壬生につきつけることで、圧倒的なちからの差を見せ付けたことになる。彼の気勢を削ぐような「生きているだけで罪」も有効に働くだろう。生きていなければ人間は行動することができない。である以上、彼が行うすべての行為に、おもちの影はつきまとうことになる。人生を肯定的にまっとうすることが非常に困難になるのだ。だがこれらは、いってみれば「反抗するな」といっているだけである。「強くなるな」とはいっていないのだ。そうすれば壬生は、呪われつつも、つまり呪いを解除しないまま、これを乗り越えることが可能なのである。

 

だが、そうはいっても、今回の件を壬生が計画したともちょっとおもえない。攻撃としては弱すぎるのである。そのいっぽうで、この件の裏には確実に誰かがいる。この展開にはまだ「先」があるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com