『ホッブズ』田中浩 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ホッブズ リヴァイアサンの哲学者』田中浩 岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

「「万人の万人にたいする闘争」に終止符を打つために主権の確立を提唱したホッブズは、絶対君主の擁護者なのか。それとも、人間中心の政治共同体を構想した民主主義論者なのか。近代国家論の基礎を築いたにもかかわらず、ホッブズほど毀誉褒貶の激しい哲学者はいない。第一人者がその多面的な思想と生涯を描いた決定版評伝」Amazon商品説明より

 

 

 

あまり見かけたことのない、『リヴァイアサン』のホッブズ評伝。

思想家というのは、その思想についてはよく知られていても、人物としてどういうものだったのかよくわかっていないということが案外多いのかもしれない。ニーチェとか、フーコーとかアーレントとか、そういう、なんというのか、ある種文学者的に、人生と作物が手をとりあっているような場合もあるだろうけど、たとえばソシュールとかは、どういうひとだったのか(ぼくは)よく知らない。ホッブズともなると400年くらい前のひとということもある。まだ、アリストテレスとかのほうが透明度は高いような気さえするが、どうだろう、プラトンとソクラテスになると、ソクラテスに語らせているいっぽうでプラトン自身はどういうひとなのかよくわからないし、まあ、時間的距離というよりはやはりひとによるのかもしれない。言葉の作品を残したわけではない、歴史上の政治的な人物などに比べても思想家にその傾向が強いような感じがするのは、著作がその人物の魂に近いものととらえられがちということもあるかも。書かれてあるのだから、それ以上言葉で開陳すべきものはないと、どこかでスルーしてしまうのだ。ショパンはたくさんの作品を残したが、それは音楽であって、人生を言葉で語るものではない。しかるに、彼の人生はよく知られている。それは、作物と人生の具体物が別のものと考えられているからかもしれないと。

 

ともかく、ホッブズの人生もよくわからない。といってバイエルほど正体不明ということもないが、ともかく、正しく「400年前のひと」という感じなのだ。自伝も書いているらしいのだが、とても短く、たとえばなにを読んで、なにに影響を受けたかとか、そういうことはぜんぜんわからない。あのガリレオ・ガリレイと会ったことさえあるようなのだが、思想の自由が制限されていたせいで、記述はない。唯一たよりになるのは、じっさいに本人と交流があったオーブリーというひとの評伝である。ホッブズ以外にもたくさんの人物を評した『名士小伝』という本のなかで、とりわけ尊敬していたホッブズについてたくさん書いてくれたのである。本書はそれをもとに(とはいえ、明治大正の作家のひととなりを描くような精細さにはならないのだが)ホッブズの生をたどりつつ、その思想を紹介していく。非常に簡潔に、要領よくまとめられた1冊であり、思想の入門本としても最適である。鮮烈に社会契約の発想をまとめあげた政治思想の父みたいなひとなので、嫌がらせを受けたり、当然何度も亡命、命の危険もあったような状況になったり、たいへんだったようだが、通して地味におかしかったのは、ロックがホッブズを微妙に避けてたっぽいというようなことである。とはいえ、ホッブズは1588年生まれでロックは1632年生まれ、ロックが活躍しだすころにはもうホッブズはけっこう年をとっているので、競い合ったり意見をぶつけあったりというものでもないが、人間関係的な配慮もあって、ロックは会わないようにしていたらしい。そうでなくても、ホッブズはふつうに「不良老人」なので、積極的にはちょっと・・・とロックが考えたとしても不思議はないけど(いちどだけ会ったことがあるという証言もある(119頁))。

 

ホッブズがリヴァイアサンまでに採用した政治理論は一貫しており、それ以前の『法の原理』や『市民論』で開かれた発想がもっとも強力にまとまったものが『リヴァイアサン』ということになる。ぼくも含め、一般的な理解としては、ホッブズは国家の存在にアリバイを与えた思想家ということになるだろう。秩序のない世界では、人間は自然権を行使して限られた資源をみずからのために集めていくことになる。法も国家もない世界では、隣人が栽培したトマトを突然むしゃむしゃ食べ出しても、それを制限するものがなにもない、とがめることができない。だが、隣人の栽培したトマトをむしゃむしゃ食べてしまっている以上、じぶんがためておいた雨水をがぶ飲みされてもやはり文句はいえない。こういう状況は災害などの危機状態にでもなればいよいよ危険な奪い合いの場面を呼び出すだろう。そうして、自然状態の人類は普遍闘争に陥る。そこで、自然権を部分的に放棄し、「社会契約」を結んで、コモン・パワーにこれを預けてしまおうとするのが社会契約論である。その代表者が作り出した法の支配が始まることで、はじめて人類は平和に暮らすことが可能になる。こういうわけで、「国家」の必要性を語ることはいまでも可能だ。だが、こういう見方はいかにも表面的というか、その思想が優れているがゆえ、テクストとして独立してしまい、場合によっては「切り取り」のようなことが可能になってしまう土壌の原因にもなるだろう。評伝ならではの書き方となるが、ホッブズにもまた、国王と議会の対立を解消しなければならない「当時の事情」というものがあったわけである。このなかで、ひとにとって、社会にとってもっとも重要で優先されなければならないものはなにかと考え、ホッブズは「生命の安全」にたどりついたのだ。生命の安全を最高善とするなら、国家はもちろん必要不可欠なものとなり、その理論は国家のアリバイとなっていくものだが、ホッブズの目的意識はそういう順路のものではなかったのだ。

 

リヴァイアサンは光文社の例の新訳文庫で角田安正訳が出ていて、ぼくも1巻だけ読んだ。有名なところはこの1巻におさまっており、おそらく宗教論争的なものは2巻になっているとおもわれるが、ぼくが読んだときはまだ2巻が出ていなくても、そのままになってしまっている。買ったかどうかも思い出せないのでどうするかわからないが、書評に書いたように、たぶん、未読のまま想像する内容とはぜんぜんちがう、おもしろい本だ。岩波文庫版で読み直そうかな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

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