『道徳を基礎づける』フランソワ・ジュリアン | すっぴんマスター

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■『道徳を基礎づける』フランソワ・ジュリアン著/中島隆博・志野好伸共訳 講談社学術文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「井戸に落ちそうな子供を助けることは憐れみなのか、義務なのか。ルソーもカントも道徳を基礎づけることを試みた。しかし「誰も成功していない」(ショーペンハウアー)。ニーチェは道徳の系譜学へと目を向けた。そして今、思想史を相対化し伝統を確認しながら、著者は孟子との対話を始める。賢者の石は、中国思想を批判的に揺さぶり続けたその先にある」Amazon内容紹介より

 

 

 

 

 

挑発的な副題「孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ」に惹かれて購入した。題材として特に孟子の問題のたてかたには身近でわかりやすいものもあり、最初はすいすい読み進めていたが、しだいに難しく、哲学書らしくなっていく。いままで経験したことのないような観点からの考察で、たいへんな刺激になった。

内容としては、道徳にかんして、西洋では啓蒙思想の時代から理性に基礎付けようとされてきたわけだが、ここに孟子を導入し、西洋思想と東洋思想を対話させ、相対化し、しかし保存せず、対話させて互いに変容させていくという試みである。著者のフランソワ・ジュリアンはフランス人で、ギリシア哲学を専攻したのち、中国思想の研究にすすんでいった。だから原著はフランス語ということになるが、これを翻訳するとなるとたいへんな作業である。じっさい、訳者あとがきにはジュリアンのその後の著書の一覧があるのだが、ほとんど邦訳されていない。本書の翻訳は、ただフランス語ができて、哲学的素養があるだけではできない。中国思想にも造詣深く、ジュリアンが引用しフランス語に翻訳している箇所にかんしてただちに反応できるようでなければ、この翻訳は実現しないのである。だから翻訳者の中島隆博、志野好伸はともに中国哲学専攻である。

 

 

 

冒頭に中国の逸話が引かれる。じぶんに善政は可能か思い悩む王に、賢者は、供犠のために処刑場に連れて行かれる牛を目にしたある王が、それをやめさせ、羊にかえよと命じたはなしを聞かせる。これは、牛のほうが羊より価値が高いとか、そういうはなしではない。王は、引かれていく怯えきった牛を見てかわいそうだとおもった、そして羊は見ていないので、そうはおもわなかったと、こういうことである。また別の例として、井戸に落ちそうになっている子供を見たら、誰もが、そうすることによって起こるなにごとかなどを抜き、ほとんど反射で手をさしのべる。これが、孟子における道徳の基本的景色である。他者(牛、子供)に揺さぶられることで自然と生じてくるこころの働き、情動なのだ。

たほう、西洋では、たとえばルソーは「憐れみの情」というものが人間には備わっていると考えていた。これは、ホッブズの自然主義を批判する文脈で出てきたものである。ホッブズは、法の正当性を証明するために、法のない、自然状態における世界は必ず普遍闘争に陥るとした。この根拠は、人間の利己主義である。人間は、まずじぶんの欲望をもとでに行動を開始する。だから、これを律するもののない世界で、ひとは欲望のままに奪い合い、世界は奪い合い、殺し合いになるというのだ。その結果、ひとは、利益を得ようと行動に出ることで、結果損をすることになる。それよりも、じぶんの権利のいちぶをなにか強いもの(政府や法)に預けて、行動を制限することで、一定以上の利得が確保されているほうが賢いではないかと、こういうおはなしである。僕は『社会契約論』はまだ途中なので、ルソーにおける法の必要性の理路についてはまだ一知半解だが、ともあれ、ルソーはこの普遍闘争のぶぶんを否定した。法がなくても、ひとびとは闘争状態に陥らないと。その根拠が「憐れみの情」(翻訳によっては憐憫の情)である。バキの感想で花山薫の仁義をこのルソーの憐れみの情と等しいのではないかと考察したことがあるが、あれは本書によるとどうやら正しかったようである。法以前の地点、またフロイトの考える良心(内面化された父)以前の地点で、「ペット禁止のアパートに住んでいるのに雨に濡れる捨て猫がかわいそうで拾ってきてしまう」という感覚だ。これがあるから、ひとは相手の痛みを知ることができる。したがって、細部においてはともかく、大局的にみて世界が戦争状態になることはないと、こういうおはなしである。

しかし、本書において僕が最初に衝撃を受けたところだが、このルソーの憐れみは利己主義であるというのである(60頁)。じっさい、ルソーの『エミール』にそういう言及があるらしいのだが、「人はただ、自分自身それを免れているとは思えない他人の不幸だけを憐れむ」のである。わたしたちは、苦しむひとをみて、その苦しみを想像するとき、じしんがその苦しみを味わっていないことも同時に感じている。じぶんが苦しまずにすむために、そのひとに苦しんでもらいたくないのである。

このように、かのルソーですらがこの西洋的な論理にとらわれ、道徳の基礎付けをできずにいた。つまり、これこれこういうのが道徳なのだと、その作用を名指しで示すことができず、ただ利己主義の変奏のようなものとして(結果的には)提示するにとどまったのである。こうしたところに孟子を置いてみると、新しい観点が開けてくる。本書はこのような論文だ。しかし、著者じしんや訳者もくりかえし書いているように、それはただ、西洋的な発想に東洋的な発想を対置させて、矛盾を解消していく、というようなものではなく、互いに相手の難所を切り崩していって、止揚していくような手つきなのだ。

 

 

孟子のばあい、道徳的行動はある種の反射として生じる。それはたしかに道徳の基礎づけのはじまりのようなものとしてとらえうるのかもしれないが、しかし、「個人的にそう感じた」というレベルを出ない可能性もある。つまり、このままでは普遍化できないのだ。カントはここに宗教的な神の世界を持ち出して、道徳やその行動が生じる背後に規則を設けようとした。道徳心がからだの内側から生得的にあらわれてくるものではないとしたら、外部にその根拠があることになる。カントはこれを超越的な神の世界に求めるしかなかったのである。

これが孟子では、そうした道徳のあらわれを、道徳の「端緒」だとする。徴候、要するにさきっちょでしかないのである。このとき、わたしたちは内在の根元に触れる。その先には「天」がある。こうした議論が、有名な性善説につながっていく。これは、人間は生まれながらにすべて善であるということではない。先の王が目の当たりにしたおびえた牛をかわいそうだとおもったという、この逸話を、賢者が治世について悩む王に聞かせたのは、ここに「拡充」という独特の概念があるからである。かわいそうだとおもって悩み、やめさせることそれじたいは、「さきっちょ」でしかない。ひとはそれをたどって、拡充し、天に向かう努力をしなければならない。その「さきっちょ」があらわれている以上、想像的にあなたは治世に成功するであろうと、こういうことなのである。

 

 

ルソーら啓蒙思想と孟子を比較してみて浮き上がることのひとつに、「意志」は自明ではない、ということがある。西洋的な発想では、行動は、行動しようとおもったから実現する。これはサルトルにまでつながる系譜で、フロイトやソシュールが登場して、構造主義が成立するまで支配的だった一般的な思考法だったとおもうが、それも覆されたわけではなく、西洋思想の影響下にあるわたしたちも、かなりのぶぶんそうとらえているはずだ。しかし中国にはそういう概念がなかった(「解釈」もない、とどこかに書いてあった)。ここはかなり難しくて、すっきり理解できたとは言い難いのだが、たんなる「端緒」であったあらわれは、しだいに広がっていって内側を満たし、天に至る。このプロセス、天に至るということそれじたいが、天のシステムの内側で起こっていることなのである。西洋的にいえば、わたしたちが生きている現実世界があって、そこに並行して超越的な神の世界がある。道徳は現実世界では保証されない、しかし、超越が、それを担保する。ところが孟子では、超越は内在の拡充した想像的姿なのである。中国思想では道徳的にふるまうことが利である、得だというのもおもしろい。ハリウッド映画などで、理想に殉じるものの悲劇が描かれるとき、その行為がもたらす利は、超越界が保証していることになる。しかし中国では、拡充された内在はいずれ「天」に至るわけだから、必ずよい結果が待っているのである。

 

 

とはいえ、悪は存在する。理論的には、道徳的ふるまいはよき結果をもたらす。はずなのに、それに応えない悪があらわれることはどう説明できるのか。孟子はそれを無視する、あるいはただ待つというしかたでしか対応していないようである。以下非常に充実した解説もついていて(本文より難しかった・・・)、まだまだこの問いは終わらないようだ。こうした哲学の問いは、ふつうに生きていると、なぜそんなに難しく考えるのかということになりそうだが、「意志」や「自由」が自明ではなかったように(どれも哲学的議論と社会的な葛藤の果てに一般に定着していったものだ)、道徳も当たり前の機能ではない。文庫版解題には、「人権」について同じように書かれている。「人権」というものが最初からヨーロッパのなかに流れていて、自然と言語化されて一般的になっていった、のではなく、全体がかたちをかえることで、それは生まれたのである。