第183話/立ち合いの継続(つづ)き
前の続きです。
転んだバキの顔になんと蹴りを放つ武蔵である。
バキは倒れつつも逆立ちの状態になって一回転、もとの体勢にもどる。
かつてバキと武蔵が光成邸で接触したとき、武蔵は立ち合いの最中に一瞬でも不安定な片足になる愚を説いていた。そのときの絵が久々に載っているのだけど、いまの武蔵と全然顔がちがう。こんなに変わっているなんて気づかなかった。こう比べると、かつての武蔵もふつうの人間じゃない、酷薄な顔ではあったけど、まだなんかこう、古武士とか浪人風の雰囲気があった。いまの武蔵は爬虫類っぽさが増して、思考がさらに読めなくなっている感じだ。
バキにそのときのことを指摘され、武蔵は笑いながら「学んだ」という。つまり、「立ち合いの最中に片足になる」ことが「愚」であるとは、一概にはいえないと、武蔵は知ったということである。たぶんこういうところが武蔵の強さなのだ。バキたちのようにへそから上を自在に蹴ることはできないが、いまのように転んだ相手の顔を蹴るのであれば有効であると。とはいえ、この前蹴りふうの蹴りを練習したのかというと、微妙である。前蹴りは蹴り技のなかではおそらく回転後ろ蹴りに次ぐ威力の高さになるとおもうが、まあバキは鼻血で済んでいる。誰も見ていないところでちょっとだけ練習したものを、今回試してみた、くらいの感じだろう。蹴ってる武蔵はなんかちょっと楽しそうだし。
蹴り技にかんしてはもうひとつ、武蔵は勇次郎戦での金的を思い出している。刃牙道に登場してから、武蔵は強者という強者とたたかいつづけてきたわけだが、勇次郎に金的を蹴られたときがたぶん最大のピンチだったろう。金的蹴りにかんしてだけは剣よりもいい(強い?)と武蔵は認めるのである。
で、その金的蹴りから想起される範馬勇次郎。バキはそれに勝っている。武蔵はそれをほめるのだが、バキはムスッとした顔でじぶんは認めていないという。敗北を認めないのではなく、勝利を認めないのだ。武蔵はそれを勝ちは勝ちだという。これは、ちょっと大きい描写かもしれない。バキ対勇次郎が仮に試合だったとして、それを裁けるような審判というと、そうはいない。せいぜいピクルくらいのものだ。しかし武蔵なら、武蔵なりの感想をあのたたかいにかんして口にする資格はあるだろう。武蔵的には、なんか事情があるんだろうけど、とりあえず光成はバキの勝ちといっているわけだから、そういう見地がありうる勝負だったにちがいないのだから、だったら勝ちといっておけ、という感じなのである。
武蔵が、しゃべりすぎたとして、気をとりなおしてまたオーラを放ち始める。ほかのものはどうだかわからないが、本部はこのたたかいの意味を見抜いていた。これは、世代を超えた勇次郎対武蔵戦の続きなのである。しかも、本部はいま動けない。本部が邪魔による中断はないのだ。
武蔵もまたあの立ち合いのことを思い出しているのかもしれない。あのときのように、脱力によって落下するからだを、地面を蹴り込んで前方に発射させる。おそろしい速さなのだろう。が、バキはそれを超えるゴキブリダッシュである。おそらく左の拳が三発、武蔵の顔面と胴、それに股間のあたりに打ち込まれるのだった。
つづく。
親子喧嘩のときはカウントダウンとかして、いかにも作中最大のたたかいがはじまるという感じで演出されていたが、それと比べるとこの勝負はずいぶんふわっとはじまっている。もちろん、バキが「いちゃいけない」からの殺害宣言をしたり、武蔵がバキを見直したりというような前置きもないではなかったが、だとしても劇的とはいいがたい。これが、よく考えてみるとバキが今回やっていた(バキに限らずみんなやるけど)、会話の途中でいきなり攻撃する、みたいなふるまいにあらわれている実戦性と無関係ではなかったのだ。ふつう、試合をするとなると、試合を行っているとき行っていないときで時間的な断絶がある。スポーツマンだとその当日に最高のコンディションをもっていくだろうし、そうでなくても、通常ひとがなんらかの「試合」をするというのは、非日常である。しかし、バキや武蔵はもうその段階にはいない。闘争と日常の往来にかんして、細部を見ればもちろんちがいはあるのだが、滑らかに、アナログに傾斜するだけで、流れとして断絶していないのである。
武蔵にかんしては刀をどうするかという問題が、対戦するものにはつきまとう。このことは、武蔵じしんも感じていた。もし右のストレートが必殺で、あまりにも強力すぎるということがあったら、腕からつぶしにいくというのは、戦法としてはありえることである。相手の得意なぶぶん、優れているぶぶんをつぶしにかかるのは、身を守ることを目標にするごく当たり前の人間としてはふつうのことだろう。しかも、武蔵のばあいはその「優れたぶぶん」が、みたらわかるものになっている。試合日程が組まれて、相手のことを研究しているならともかく、トーナメントとかで予測できなかった相手にぶつかったとき、そういう戦法を事前にたてることはできない。だが武蔵は、ひとめで刀が必殺であるということが知れるのだ。しかし、もし武蔵から刀を奪っても、バキたちはそれを「宮本武蔵」とは認めないだろう。猪狩のような男なら、試合の前から根回しして、刀を試合場に持ち込ませないくらいのことをするだろうが、バキや烈みたいな男は、とりあえずそういうことはしない。では、たとえばたたかいの最中、峰のぶぶんに蹴りが当たったりして刀が折れてしまったばあいなどは、どうとらえるべきだろう。たたかいの過程で刀が失われる限りでは、彼らはそれを認めそうだが、とりあえずそのじてんから武蔵はバキたちの考える「宮本武蔵」ではなくなってしまうわけである。
このあたりのバキの考えは、おそらくおいおいわかっていくだろう。だが、どのようにとらえるのであれ、武蔵が素手なら弱いということはない。オリバが驚愕したように、武蔵の五体には刀が備わっているのだ。イメージ刀にかんしてはこれまでもいろいろな仮説をたててきたが、とりあえずいえることとしては、相手のレベルが高ければ高いほど、その効果は上がっていくということがある。格闘技をやったことのあるひとならわかるとおもうが、たとえば上段廻し蹴りがきて、これをさばくという動作をするとき、捌く側は蹴りが起こってから反射神経を起動させて「蹴りがくる」と認識し、捌きの動作に入るのではない。それでは間に合わない。目線や重心の移動、肩の動きなどを見て、これからやってくる技をからだが勝手に予想し、反応しているのである。途中から軌道をかえる変則的な技は、こうした相手の反射に訴えかけるものである。イメージ刀はおそらくこうしたことの究極形とおもわれる。武蔵の目線やわずかな重心の移動には、非常に強く、深く、その先にやってくるはずの攻撃を刻まれている。逆にいえば、その信号がなにを意味しているのかよく理解しているものでなければ、これは伝わらない。それが、ピクルには斬撃にかんして質ではなくただの衝撃のようなものとして理解されたことの理由かとおもわれる。
バキくらいになるとこれが遅れてやってくる。もしイメージ刀で足を斬られたら、「足を斬る」という動作の起こりが信号となって伝わり、斬られたと感じるところである。しかしバキは最初それに気づかない。しかし武蔵の言葉を受けて、じわじわとこれを感じ取ることになった。ここには、バキの、闘争における無意識のぶぶんを感じ取ることができる。武蔵からの信号じたいは、バキは受信しているはずである。が、最初のうちは意識のうえにのぼってこない。電車の窓から外を眺めていて、勢いよく目の前を通過していくホームの景色のなかに知り合いを見つけるような感じだ。その瞬間に、おやとわたしたちはすぐ反応しないだろう。一瞬あいだをあけて、あれ、いまあいついなかったかとなるはずである。おそらくそんな感じで、バキではイメージ刀が受信・認識されたのである。
それは、バキの認識が武蔵に追いついていないということも意味するが、同時に、なにもかもを意識のなかに処理しようとするようなスタイルよりずっと自然体な、それこそ日常が闘争であるもののような感性も感じることができる。みたように、バキと武蔵にはもはや日常と非日常の差がない。行住坐臥すべて闘争ときくと、四六時中緊張して、周囲の気配をうかがって生きているようだが、それを実戦しているたとえば花山にはそんな様子はない。おそらく、これはそういうことではないのである。日常を弛緩、非日常を緊張としたとき、つねに襲われることを意識して生きるしかたは、ゆるむことのない緊張を要請するだろう。しかし、もしかすると、それを続けた先には、もはやじっさいに襲われても緊張がやってこないような明鏡止水の境地があるのかもしれない。ふだんから彼らは別に緊張して生きていない。それに加えて、たとえばいきないり斬りかかられてケガをしても、別に緊張しないのである。
今回のバキのゴキブリダッシュにはゴキブリの絵も添えられている。ゴキブリダッシュの要諦は身体の内部に液体をイメージすることにある。ゴキブリのあの、まったく加速時間なしにいきなりトップスピードで動く秘密はなにかと考えたバキは、つぶれたゴキブリから液体が流れているのを見て、豁然と悟った。おそらく、じっさいにはそういうことではないし、ゴキブリに加速時間がないというのも体感的なことである。しかしここで重要なのは、バキじしんがそう考えて、しかも実技に利用したということだ。身体を液体としてイメージし、考えられる限界までゆるめて、それを瞬間的に緊張させることで爆発的なエネルギーを生み出すのである。これは、郭海皇の攻めの消力と同じ原理であるし、そうでなくても、打撃格闘技をやっているひとであれば自然に理解できることだ。かまえているとき、拳はゆるく握り、打ち込む瞬間に強く握るということは、入門1週間以内に教わる基本的な事項なのである。
この脱力からの緊張にかんしては、武蔵も実践しているわけである。脱力し、落下する身体を足で受け止め、発射する。脱力について語ろうとするとき、刃牙道以前のシリーズではことあるごとに武蔵の自画像が出てきたほどで、脱力といえば武蔵というほどには、バキ読者には定着している。しかしバキのダッシュはこれを上回る。形容する言葉じたいは異なるが、やっていることはいっしょのはずだ。消力のときのバキによれば、緊張と弛緩のふり幅が重要らしいから、たんにバキが武蔵以上の脱力を実現しているというだけのことだろうか。
ここではやはりバキが学んだ元ネタに原因があると考えたい。つまり、ゴキブリであり、「加速をしない」という点である。
このことについて議論するときいつもあてにするのが安部公房なのだが、ずっと前に該当する随筆が入った『砂漠の思想』を紛失して以来、うろ覚えのまま参照し続けていて、今回もそうするが、蛇にかんする考察だ。蛇がなぜあれほどまで人間に嫌われるのかということにかんして、安部公房は、手足がないことによる擬人化不可能が、その日常性を損なうというふうに考えた。もちろん、蛇にも日常生活はあるし、勉強をすれば彼らの生活の細部もわかることではあるが、そういうはなしではなく、じぶんたちのからだのつくりとはあまりに異なっているために、生活レベルで、家庭生活を経由するかたちで感情移入することが、あくまで困難である、ということである。だから、蛇は、なにもない虚空から急にわいてきたように、突如としてわたしたちの生活空間にあらわれるのだ。
このことを僕がよく理解できたのは、ゴキブリのことを考えたからである。僕はふつうにゴキブリが大嫌いな軟弱者だが、そのなにが嫌なのかと考えると、やはり「突如として」あらわれるその思いがけなさではないかとおもうのである。さらに、僕はバキのゴキブリへの考察を経由して、その「思いがけなさ」は、あの、加速のない動きに担保されているのではないかと、このようなことが瞬間的に理解されたのである。蛇は、なにもないところ、蛇のいない場所に、突然あらわれて、「いる」ことになる。ゴキブリも同様だが、それは擬人化ができない、感情移入不可能である、というような理由も、ないではないが、直接的ではなく、その動き方によるものではないかと考えられたのだ。彼らには(バキによれば)加速時間がない。停止とトップスピードのあいだが完全に断絶している。その黒光りのヴィジュアルは、停止時でさえひとをぎょっとさせるものだが、ここでは加速のことだけ考えることにしよう。彼らは、突如として、わたしたちの視界にトップスピードとしてあらわれる。ちょっとずつ加速していくゴキブリもそれはそれでアレだが、ともかくそう感じられる。これが、「いる」ときと「いない」ときを断絶し、蛇がそうであるように、まるで異界のもののように感じさせるのである。
バキはこうしたある種異界のものを参考にして、ゴキブリダッシュを身につけた。日常性を欠いた嫌悪の対象である師匠を真似して獲得された高速ダッシュは、原理は同じでも、合理的な武蔵らしい物理の現象としてとらえられたものとは、やはり異質である。そして、このことはやはり最近の、バキが“見えない”という現象とは無関係ではないとおもわれる。何度か考えたことだが、バキの武蔵は「いちゃいけない」スタンスは、次第に常人の理解を超えていっている。法のレベルでは、もはや武蔵を「いちゃいけない」とする機能はない。彼は、彼のまわりだけ、超法規的な空間を作り出すことに成功したのである。これを、「いちゃいけない」とおもうからといって実行にうつすことは、武蔵同様、法に反する行動である。しかし、おそらくバキの発言を知らない大衆は、どこかでバキによる天罰のようなものを望んでいる。このことがなにかファシズム的というか、ちょっとこわいのだけど、ともかく、そのバキの行動は視認できないものになっている。もちろんそれは、たんに素早いということなのだが、同時に、彼が非日常の住人になりつつあるということも示していると考えられるのである。日常と非日常、弛緩と緊張の二元論的な、「試合」のひかえたものとしてのありようを超えて、もはやバキにはそこに差がない。しかし、常人からすれば、バキの姿は全体にわたって非日常である。だから見えない。ピクルを経由してこの世に足場を獲得した「社会人」の武蔵にとっても同様だ。しかも、彼はこれを、日常性を書いたゴキブリをまねすることで実現するのである。むろん、ゴキブリにも日常はある。しかし、研究者でもなければ、そんなことはわたしたちには関係ない。ただ、虚空から加速なしにあらわれた彼らに驚くだけである。バキは、この非日常であるところの「いる」を持続させているのである。
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