第52話/のこった
重量を加えて動きを制限する渋川剛気の合気に対し、巨鯨は緊急避難的に張り手で応じる。しかしそれこそが達人の待っていた展開だった。張り手のちからを利用し、290キロの巨体をひっくりかえしたのである。
足が天井を向くほどに巨鯨は回転している。実況含め、人々は大関に「土が付く」と感じる。この試合はいちおう相撲ということになっているが、行司がいないわけで、好きなタイミングで仕切り直しもできる(地面に手をつける)ことからしても、ルールとしては地下闘技場ルールということのようである。だからこれは、それで負けになるとかそういうことではなく、力士が、相撲取りとして負けてしまう、という点において、各自驚いているのである。
が、いちど空を待った左足を、巨鯨は体幹部の回転で無理矢理地面に着地させ、なんとか態勢を立て直した。つかんでいた手もはなして両者は再び距離をとることになる。実況はたぶん今日はこれが言いたかったのだろうとおもうけど、「のこったッのこったッ」と煽っている。
各自各様のリアクションが興味深い。嵐川理事長は、あの超巨体が投げられたことに驚愕している。これまで巨鯨を投げることができたのは、横綱・零鵬と、筋力重視タイプの獅子丸だけだったのだ。いやまあ、290キロを投げる、というとすごいとおもうけど、達人は合気だし、腕力だけでも10人くらいはできるやついるとおもうよ。
観戦しているバキは、渋川が巨鯨を「投げた」ことに驚き、克巳は巨鯨がそれをしのいで「のこった」ことに驚いている。光成も克巳同様「のこった」ことに驚いている。なんのかんのと達人への信頼は揺らがないようだ。以上の状況を金竜山がまとめるように語る。光成は「のこった」ことに驚いているが、じぶんは彼が投げられたことが心底ショックだと。金竜山は、アレかな、最大トーナメントの達人の試合は見てなかったのかな。勇次郎にやられてしまったあとのジャック戦・独歩戦はともかくとして、その前のやつは見てるよね。彼は、大相撲とたたかうもと横綱ではあるが、それだけに、力士がどれだけ強いかということもよくわかっているのである。
バキと克巳は相変わらず各自の驚愕を堪能している。バキは、合気にサイズが無関係ということを再確認し、克巳は、そんな合気でもタイミングさえ注意すればしのげるのだと。キミタチはアレかね、バキ界でも3本指に入る才能の持ち主だとおもうけど、そんなに驚くかね。のこった巨鯨がすごいのはまだわかるけどさ。でも、冷静に考えると、達人がオリバを圧倒したところとか、誰も目撃者がいないんだもんな。案外バキたちでもそんな認識なのかもしれない。
巨鯨もさすがに考えを改めたようだ。目の前にいるのは打てば崩壊するジジイではない。汗ひとつかかずにじぶんを投げる魔法使いである。腰を割り、蹲踞、立ち合いの体勢に入る。ぶちかますつもりなのだ。金竜山はそれを見て、「合気の出る幕じゃない」と、なぜだか相撲をほめる立場のセリフをくちにする。光成は苦笑気味に「どっちの側だ」とツッコムが、まあ金竜山の気持ちもわからないではない。
ただ、ぶちかましといっても、こう、胸のあたりをぶつける感じではなく、横からの張り手を加えるかたちで行うようだ。屈んでようやく同じ高さになる290キロのかたまりが達人に迫るのであった。
つづく。
達人は落ち着いているが、内心では「まいったなァ」といっている。特にこのひとの場合は、これはどちらの意味とも考えられる。つまり、ぶちかましを脅威と考えたうえで、どうしようかとなっているのか、あるいは、けっきょくこんなもんか、というようにがっかりしているか、どちらにも見えるのである。
問題は巨鯨が張り手を突き出していることだろう。くりかえし論じてきたように、渋川剛気の合気は、複雑なちからの流れを瞬時に読み取って、互いに相殺さえ、反転させる技術である。それを行うには、触れなくてはならないだろう。としたときには、やはり腕とか足などの突起物は、多少やりやすさがあるにちがいない。複雑なちからの構造が一点に集中しているし、さらにいえばたんじゅんに触れやすいからだ。むしろ巨鯨は、いつもやっているように、点ではなく面でぶつかるほうがよいかもしれない。まあ達人はふつうに実戦に長けているから、合気だけではなく、さまざまな技術を抱えており、張り手だろうがぶちかましだろうがなんとでもできるような感じもするが・・・。
巨鯨のほうは達人を見直しただろうが、達人がどう考えているかというのは、そういうわけでまだわからない。今回の見どころは試合よりも観戦者のリアクションである。力士を投げることがすごいのか、合気から逃れたことがすごいのか、このふたつの視点が、明らかに意識されたかたちで、対立させられているのだ。むろん、作劇の効果をねらって、緊張感ある仕切り直しのためにとられた展開だろう。要するに、「どっちもすごい」ということを、作品全体としてはいっているわけである。
しかしそのいっぽうで、バキと克巳には個別の感想が見られる。今回はふたりは二度リアクションをとっているが、どちらにおいても、バキは「巨体にも効かせる合気スゴイ」であり、克巳は「合気をかわしてのこる相撲スゴイ」なのである。これらの感想に、個別の意味を見出すこともできるかもしれない。たとえば、バキは合気の底知れなさにつねに敬服していて、ほとんど強さをきわめたとおもわれるじぶんがまだ伸びる箇所があるとしたら、それはこうした分野だと考えているのかもしれない。だから、290キロを投げる達人に驚愕する。克巳では、片腕のころ、刃牙道の最初で達人と組手をしていた描写があったから、合気の逃れ難さをよく知っていて、そのうえで驚いているということかもしれない。それはまあ、なんとでもとれそうだ。しかしここで重要なことは、バキと克巳それぞれに固有の経験(とそれに基づいた感想)ではなく、この試合が、そうした驚きを伴うものとして受け取られているということである。つまり、百戦錬磨の天才と形容しても別にまちがってはいないとおもわれるバキや克巳が、はじめて目にする、はじめてそうしたありようを経験する、というようなものが、今試合では実現しているということなのである。
そんなことないだろう、290キロの巨体といっても、リーガンはもっとでかかったし、バキはそれを瞬殺している。安藤さんや夜叉猿だってたぶんそれくらいはあるし、体重は軽くてもピクルやオリバはそれに匹敵する腕力を備えていたと、こういう反論は当然出てくるだろうが、この点にかんしては、この試合が達人にとっての文字通りの「試合」、技術を試す機会だというふうに考えればよいだろうか。要は、地下闘技場ルール、あるいは路上ルールで、「殺し合う」のであれば、達人にとっては巨鯨はじっさいなんということのない敵であろうし、たぶんバキも克巳もそれを見て別になにもおもわなかったとおもうのである。だが、渋川剛気じしんがいっていたように、この試合は合気の限界が試されている。それは、それを備えた「渋川剛気」という個人の勝利によって解消する問題ではないのである。合気が、合気の原理のもとに、渋川剛気をただ媒介として、巨鯨を圧倒しなければならないのだ。
どうしてそんなしばりを達人がみずからに課すのか、ふたつ理由がある。ひとつは、この試合が「相撲」という括りのもとに組まれているということである。いってみれば、「力士」というファイターじたいはこれまでも幾人か登場したが、舞台としての相撲は、ノータッチだったわけだ。そこにこそバキたちは神秘性をみているのであり、いままでじぶんたちがしてきたような「いのちの奪い合い」とはまた別種の実戦性、すなわち古代相撲の姿が隠れているのではないか、という直観があるのである。そこに「いのちの奪い合い」の文脈、語彙、思考法を持ち込んでも意味がないのだ。
そしてもうひとつは、前回前々回と書いてきたように、渋川剛気じしんが、合気の外部を求めてきたということがある。彼は柔道出身者で、その自信を御子柴盛平に覆されて、合気の道に進んだ。この経験が、ある種のトラウマとなって、達人に常に不安感を加えることになる。柔道家としての彼は、若いということもあり、柔道を通じたファイトにおいてそれなりに全能感を覚えていたはずである。これがくじかれて、合気の道に転向することになったのだが、この経験が、彼に、合気を通じて得られる全能感への疑いをもたらすのである。渋川剛気はつねに合気の限界、「ここから先はいけない」という果てを探してきたにちがいないのだ。これが、ふたつめにして、渋川剛気個人にとってはより重要な、この試合において彼が技術の行使にこだわる理由である。だから、渋川剛気は、じぶんの技術が及ぶ範囲のぎりぎりのところを攻めるはずだし、じっさいそうしているのだろう。それが、バキや克巳に「見たことのないものを見ている」という感覚を与えるのだ。
渋川剛気に負けてほしいわけではないが、限界は知ってもらいたいともおもう。そうすれば、彼はさらに先に進むことができるからだ。最後の「まいったな」が、全能感をくじかれた結果のものであればよいが、難しいかなあ・・・。
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