さあ、なんとか自己満まとめ記事出し終わったので、年越しできるぞ。そんなに読まれてないような感じもするけど、どうも皆さんお疲れさまでした。
今年はいままで以上に仕事の拘束度が高くて、出かけたりとかはあんまりできなかったんだけど、書き手としての具体的な進展という意味では、ないではなかった。というか、いろいろあったなあ・・・という感覚だ。
1月はえらいてんちょう氏とお会いした。もともとすっぴんマスターを読んでくださっていて、ふと、DMのやりとりなどがはじまり、会いましょうというはなしになったのである。そのときの印象については記事を読んでもらうとして、出版やN国との対決など、今年の彼の活躍をおもうと、なんかすごいタイミングでお会いできたんだなあというふうにおもう。エデンの本店で待ち合わせしたわけなんですけど、遅刻魔なので、せっかくじぶんについていい感情をもってくださるかたに会うわけで、珍しく20分くらい前には要町についていて、近所の本屋でスピリッツ買ったりしてたんですね。手土産もあったけど、それとは別に、ウシジマくんがつないだ縁なわけで、スピリッツもあったほうがいいだろうと。ちょうどその週は休載だったんだけど。で、時間になったので、エデンのあの非常に入りにくい入口をノックしたかなんかすると、もう彼いるんですよ。ぼくだいぶ前から周辺を不審にうろうろしていたんですが。そのときはまだエデンの営業形態をよく理解していなかったので、てっきりお店がやってる感じのところに入っていくのかと思いきや、えらてん氏ひとりなわけです。ぼくのために時間つくって、なかで待っていてくれたわけ。あの忙しいえらてん氏が。なんかそのときは、はじめてネットで知り合ったひとと会うという緊張もあって、よくわからなかったけど、十津川警部ばりに日本全国飛び回って、本の営業したり、要人と会談したりしているいまの状況から振り返って見ると、ほんとうにありがたい対面だったなと。
そればかりでなく、えらてん氏は、紹介等、いろいろチャンスをつくってもくださったのだけど、現状まだ生かしきれていない感じ。その後、エデン界隈の次世代インテリの幾人かとも顔をあわせる機会があったんだけど、あちらが日本最高レベルの知性ばかりということもあるが、なにしろぼくじしんが話下手で、あたまの回転も遅いので、毎度ほぼ無言で過ごすことになって、気まずいというよりも、おそらくいろいろ期待してくださったであろうえらてん氏に申し訳ない気持ちが勝ってしまった。現在はあんまり交流というほどのものはないのだけど(そもそも氏の忙しさがあのときの比ではない)、似たような機会がないでもないだろう、そのときまでに、無言でいるのはまあしかたないとしても、名刺がわりにさしだせる作品ひとつくらいはつくっておきたいかなと、決意をあらたにしたのだった。ぼくの土俵はやはりそこ、文章なので。そのときもすでにnoteはやっていたし、名刺がわりの作品はあるにはあって、おもしろいといって読んでくださったひともいたんだけど、なかなか、福満先生によればあの業界のかたたちというのはけっこう景気のいいことをいうので、もっとこう、絶句してしまうようなものを用意したいかな、というふうに考えている。いずれにせよ、あのとき経験したものはこれまでのぼくの人生にはなかった事柄だったので、えらいてんちょう氏には感謝したいです。直接いえよということだろうけど、恥ずかしさもあるのでね・・・。言動の派手さもあって誤解もあるだろうけど、本質的には誠実な正義のひと、一貫性のひとです。みんな彼の本買ってみてね。いっぱい出てるから。来年は内田樹先生との対談本も出るよ。
えらいてんちょうツイッター
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そして3月には闇金ウシジマくんが完結した。これが「わたくしを構成するひとつの要素である作品の完結」では済まなかったことは、何度か書いたとおりである。当初は、そうだった。ブログでの書きものは、ぼくにとっては訓練である。この世のありとあらゆる作物は、ぼくの感受性を豊かにするものであり、それについて出力していくことは、ぼくの知性を研ぎ澄ませていくトレーニングだった。根本的なところでそれはいまも変わらない。ウシジマくんは、そのうちのひとつであると同時に、ある種の誤読が散見されたこともあって、使命感とともに感想を書き始めたのである。だが、ここまで注力して、ほとんど偏執的に感想を書いていった作品が、ぼくの「いち要素」に過ぎない、なんていうことは、あるはずもなかったのだ。完結してふとわが身、わが文章を振り返ってみれば、あれもこれも、ウシジマくんを読むことで発見したもので、どれもこれも、ウシジマくん感想を書くことでみずから彫琢していった理論だったのである。なぜそうなったかというと、愚問だが、ウシジマくんがすごい漫画だったからである。ぼくは、技術的には、どんな作品についてもそれなりの評論を書くことができる。だがあそこまでの洞察が、しかも長い期間にわたって可能だったのは、作品じたいが深いからなのだと推論しても、まちがいだということはないだろう。
そして6月末に発売した、スピンオフをのぞいた公式最後のウシジマ本、『闇金ウシジマくん本』には寄稿までさせてもらった。あるとき突然小学館の担当氏からメールが届き、書評をいただけないか、ということになったのである。このときほどツイッターのプロフィールにGメールのアドレスを載せておいてよかったとおもったことはない。まさかとはおもいつつ、ひょっとしたら誰かがぼくに文章の仕事を依頼してくるかもしれない、などという夢想とともに載せていたものだが、ほんとうにあのとき実行してよかった。しかも真鍋先生の意向だというのである。こんな光栄なことないでしょう。ふたつ返事で引き受け、即書いたのだが、同時に、こんなはなしほんとうにあるかな?などと疑わしくもおもったりしたものである。いまとなれば懐かしい。あの本には書評が3本のっていた。ひとつがぼくで、もうひとつが松永多佳倫氏。そしてもうひとつが、呉智英氏なのである。本が出たときにも書いたが、ウシジマくんという漫画にハクをつけた最初の一撃が、呉先生の評論だったのだ。別に並んで掲載されているわけではないのだけど、番号はふられているわけですよね。いやはや・・・。
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ここまでがこの1年の半分くらい。残りの半分は、仕事面でだいぶ精神をやられることになった。詳細についてはもう記憶もあまりないのだが、ブログを通して、更新頻度や読書数などを見てみれば一目瞭然である。ここにウシジマくん完結が少し関与していないかといえばそういうこともないが、書いたように、心境の変化を通じて更新が増えていることをおもえば、やはり原因は仕事であったのだろうと考えられる。
くだらないはなしである。入った当初から、パワハラ・セクハラが日常的に横行し、もはやそれがハラスメントであることが自覚できないほどひとびとは既存のシステムに慣れており、バイトから店長までまったく意味のない作業にしばられる理不尽な環境で、ぼくとしては社員になるつもりなんかなかったわけである。じゃあ今後どうするのか?ということになるとこたえに窮するが、今年にかんしては、前半部にいろいろあって浮かれていたから、なにか起こりそうな気がしていた、ということもある。本の一冊でも出せるようになったらとっととやめてやる、くらいの気持ちだ。現実はそう甘くはないわけだが(しかしながら本を出す気は少しもなくなっていない)、ともかく、ぼくはパートのまま毎日をやり過ごしていた。書店業じたいは好きなわけである。だから、へんなところに出ている本を正しい場所にもどし、がたがたになってる棚を小道具を駆使して見栄えよくし、売れそうな本を見えるところに陳列し、売り上げに貢献していった。ところが、たとえば休みのあとの日などにじぶんがいじったところを見てみると、見栄えよく面陳列にした棚は苛立たしげにもとのぐちゃぐちゃの状態に戻っており、ぼくが手前に出すことで売れ出したものはぜんぶ返品されているのである。この意味がわかったのが、10月ころだ。これらの行為は、どうやら越権行為だったようなのである。といっても、パートが担当をもつのはふつうのことなので、ぼくと相方だけに適用される特別ルールである。そのように商品をいじることは、無責任に行われるべきではないので、つまり、無責任な立場であるぼくらがやるべきではないと、こういうはなしなのであった。これを、ぼくは相方から聞いて、絶句したわけである。そして同時に、すっきりもした。ほんとうにほんとうに、この会社はダメなんだと、そのときはっきりわかったのだ。くりかえすように、そのルールが適用されるのは、10年以上書店勤務経験のあるぼくらだけである。そして、オーバーアチーブをしないこと、書店員、また書評ブロガーとしての資質、あるいは知識や技術をいっさい提供しないことを、こころに決めたのだ。そんなことをしてもなんの意味もないとわかったからだ。評価はもちろんないし、それどころか、売れだした本が「ぼくが展開した」という事実によって返品されてしまうのでは、なにもせず目立たないまま棚に眠っているほうが本のためにもマシである。
もともと、直接の上司がじぶんのミスをナチュラルにぼくのせいにしてきたときから、絶対に信用はすまい、と決めてはいた。しかしそれと書店の任務は別なので、ぼくは本の展開については真剣にやってきたわけである。ところが、出すぎたまねをして売り上げに貢献してしまうと、このような目にあう。そういうわけで、現在はなにもかもじぶんのために従事している。新刊が入ってくるのは、売るためではなく、ぼくじしんが読むべき本が混ざっていないか確認するためである。また、専門書エリアにいるものとしてさまざまな分野に精通しているべきであるということは当初から考えてきたが、それも、売り場やお客さんのためではなく、じぶんのために、という方向に考え方を切り替えた。そうしたら、書けるようになったのである。おもっているほどぼくは精神的に強くないというか、ブログにそれが出てしまう人間であるということが、今回のことではよくわかった。転職しないのか?という問いもあるかとおもう。じつは、休みがとれずに宝塚をキャンセルしたあの件のときに、ぼくと相方ではそのはなしはかなり深刻にされたのである。9月には思い出の水族館に出かけることができたのだが、最近そういうことがあったのだ。休みにかんしては、どちらかが辞めるか異動すれば、たぶん解決する。しかしそうするならふたりしてやめたいところである。優秀なバイトちゃんがやめると言い出しても止めないのは、こんなところでISBNがなにかも教えてもらえないままカバーだけ折ってても、若い子たちの貴重な時間がムダになるだけだからである。だが、どうも来年、大きな動きがあるっぽい。転職活動が怖く、また果てしなく面倒であるということもあるが、ひとまずはそれを信じて、もう少しだけここで無味乾燥なテンションのまま待機するつもりである。
この時期には、アマゾンのほしいものリストもはじめてみた。最初に『三体』をいただき、最近は専門書含めた複数のカラフルな本を4冊もいただけた。読者のみなさんのあたたかいお心遣いには、この会社につとめだしたときから、いやその前の閉店のときから、感謝しっぱなしである。当然のように最低賃金なので、ふつうにお金がない。なので、誇張ぬきでこれはうれしいのだ。今後も、お金があまってしょうがないな~・・・なんてことがあったら、わたくしのほしいものリストのことを思い出していただけると幸いです。(noteもあるよ)
ほしいものリスト
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share
note
さて、来年の課題としては、すでに記してきたものでもあるが、まず筋トレにかんしては、増量である。増量は目的そのものではなかったのだが、書いたように、いまが過渡期であるがゆえにからだが小さくなってしまっているというのであれば、来年あたりいよいよ片手腕立て伏せやシュリンプスクワットが感性するはずなので、体重は戻るはずだ。その結果としての増量を期待したい。
また理知の面では、小説や漫画、映画や宝塚など、物語面での摂取が明らかに不足しており、感受性が鈍くなっているという実感がある。若いときは、ぼうっと生きてても周囲が刺激的なものに満ちているので、感性は磨かれるものだ。しかしいまのこの単調な生活にそれは期待できない。こちらから出かけていって摂取しなくてはならない。今年は担当エリアがそうだということもあって専門的な本が多かったが、もっと新鮮なものに挑戦していきたい。
思想面、あるいはひとりの書き手としての課題は、フェミニズムの語り口をどのように構築していくかということがある。あまりに大きすぎる課題なのでぼくひとりでどうこうということでもないが、少なくとも落としどころは見つけたい。くわしくは過去記事などみてもらうとして、「フェミニズムのあるがままを語る術をわれわれは持っていない」という問題である。魯迅が参考になるかもしれない、という直感はあるが、それは来年のぼくに任せます。任せたぞ。
あと具体的なところではそうだな、なにか大きいものを書いて、知人の業界のひとに送りつけるとか、そういう感じの無謀なことも、そろそろしておいたほうがいいかもしれない。本を出す、ということを、もっと真剣に考えようということだ。どなたかもしなにかいいはなしありましたら、いつでも連絡お待ちしておりますよ。
そういうところでブログ納めです。みなさま、どうも1年お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。