2020年あけましておめでとう | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

あけましておめでとうございます。

 

 

大晦日は早めの閉店となった。このごろは大手デパートでも早めにしめていることが多くて、駅ビルのいつも行ってるレストランとかもやっていなかった。たいへんすばらしいことだとおもう。10年以上前に働いていたアウトローなコンビニのオーナー(いまも交流はある)は、「年末年始くらい休んだってなんの問題もないよなあ?なあ?」としきりにいっていて、それですっかり懲りてしまい、以降店舗営業・客商売はしなくなってしまったが、まあじっさい問題はない。うちの店も元日のみお休みということになっている。スーパーも早めに店じまいして、みんなのんびり年越しができたことだろう。しかしながら、コンビニはやっている。24時間営業の牛丼チェーンとかはどうなのだろう、それに、当たり前だけど、電車は動いているし、救急車は出動するし、自転車置き場のおじさんはいつも通り自転車を出してくれた。そういうところで、なんとはなしに、重商主義的というか、この流れはこれでいいのかな?というふうにも感じたのであった。スーパーが早めに閉店しても「問題ない」のって、コンビニがあるからじゃないのかな、ということである。本来であれば、コンビニも早めに閉店して「問題ない」となるべきところ、現実には、ドジなぼくらは大晦日にトイレットペーパーを切らしてしまってコンビニに出かけるわけである。本なんかは別に今日明日必要なものがなくて死んでしまうことはないのでどうでもいいが、食料や生活用品の販売にかんしては、ひとびとがいまのマインドのままでいるのであれば、けっきょくはどこかが損な役回りを引き受けるだけになってしまうのではないかななどとおもったのだった。そのぶんもうかるというはなしかもしれないが、早めにしめるとかしめないとかいうはなしは、もうけとは別の文脈のはなしである。

 

 

年越しは相方の実家で。最近は2355といって、NHKのEテレで23時55分にやっている5分番組を好んでみており、年越しはその特番があるということで、格闘技を見ながら待機していた。ふたりとも浜崎朱加が好きなので、応援していたのだ。浜崎選手のあの、「ちょっと近所のジムにいってきます」くらいのテンションで、手ぶらで試合会場にくる感じが最高である。あんなにどんな状況でも落ち着いていられるファイターそうそういないですよ。試合としては残念な結果になってしまったが、相手選手の馬力や気迫はたいへんなもので、死闘と呼ぶにふさわしい、すばらしい試合となった。正直言って、ほんのちょっと前まで、女子の総合の試合がここまでの注目度であつかわれることってほとんどなかったはずだ。ぼくじしん、やってても別に注意してみてなかった。それが、時代が変わったというか、あそこまでのレベルの試合をみると、もはや女子とか男子とか分類するのがいかにもアホくさくなってくる。那須川天心も、あの年齢でしっかり仕事人の試合をするというか、お客さんあっての試合、したがってお客さんの期待にこたえなければ、という、ぼくら世代ではかつて桜庭和志がよく見せてくれていたプロ根性が完成していて、ほんとう、すばらしいとおもう。それでいて試合内容も、見せかけの捨て技みたいのがぜんぜんなくて、戦略は立ててるんだろうけど、それよりもどの一撃も相手を倒すつもりで放っており、この子はまだまだ、ぜんぜん強くなる、ということがひしひしと伝わってきた。あの威力で拳やスネがやられないかがちょっと心配だけど・・・。

そして23時45分から特番が始まったが、ちょうど年越しそばが完成して、リビングで相方の家のひととごはんが始まってしまい、じつは見れていない。録画はしたので、あとで見るけど、年越し番組をあとで見るとどういう気分になるのかな・・・。

そして、そのとき飲んでいたワイン(といってもコンビニで売っているスパークリングワイン)がどうも合わなかったらしく、やがて具合が悪くなってきた。直前にビールも飲んでいたから、それもよくなかったのかもしれない(時間があいたから大丈夫だとおもった)。そういうわけで、年を越してから就寝したものの、腹痛と悪夢で何度も起き、すっかり眠りきったと感じることのできた午後3時まで、ずっと布団のなかにいたのであった。

 

 

さて今年の目標だが、ほとんどは前のブログ納めの記事に書いた。増量、物語の摂取、フェミニズムを語る方法の研究、である。なかで物語にかんしては、おそらく電子書籍を多用することになるとおもう。ぼくのいる店は非常に有名かつ売れているような、しかも連載中の作品しかないので、古典や、あるいは新しいなにかを売り場に求めてもあまり効果は期待できない。その方向では自店ではなく、いつも寄る駅ビルの書店で補いたい。しかしそうではない、ネットで見知った系の気になる漫画は、やっぱり休憩中とかに電子で衝動買いするのがいいのではないかとおもう。ただ、前にも書いたけど、電子ってお金をつかった手ごたえが薄いのだ。ぼくは携帯料金にツケている感じなのだけど、翌月の支払い額に毎回戦慄してしまう。体感的に把握しているよりはるかに買っているのだ。なので、しっかり金額や冊数を決めて、抑制的に買い物をしていかなければならない。

あと語り口の問題にかんしては、表現の自由についても考えるべきことがあったのだった。前回書いたのは、わたしたちはほんとうには、フェミニズムが問題として前景化する差別状況を描写することができない、ということである。中国の人肉食を告発した彼自身が、知らず人肉を食べていた魯迅の『狂人日記』、かつてはリアリズムの至高の文体とされ、「あるがまま」を描く究極の方法と目された「カルテ」において、ほぼ無自覚にあらわれる女性差別ないし男性優位を描いた『82年生まれ、キム・ジヨン』、これらの作品を通して、わたしたちの「あるがまま」を描くことは、じっさいにはできないのだとしても、ではどうやって、それが抱えている病理を描けばいいのだろう、という問題意識である。もうひとつは、「表現の自由」という思想の射程範囲である。「表現の自由」が主張される現場というのは、そう単純ではない。たとえばオタクがそれをいうときには、これまでの抑圧があるし、フェミニストがそれをいうときは、ある程度有限な権利ということになっているはずである。そうしたなかで、たとえばヘイトスピーチにかんして、「表現の自由」の範疇として認めている論客も多いわけである。相手がそれをいうのは認める、ただしそれに反論し、正反対のことをいうのも自由であると。ここのところがどうしても納得がいかないわけである。

 

 

あともうひとつ、語学にかんしては、中国語かハングルをやりたい。たぶんハングルになるんじゃないかなとおもう。キリル文字もそうだったけど、とりわけ表音文字体系を相手にしたときは、文字じたいが厚いカーテンになって、向こう側が見えにくくなりがちな感じがする。マ・ドンソクのインスタグラムをナチュラルに堪能するために、ちょっとかじる程度でいいからやってみたい。今度の年度変わりのタイミングで両方のテキスト買ってみて、いけそうなほうやってみようとおもう。

 

そういうわけで、今年もよろしくお願いします。幼年期のバキが打倒夜叉猿に向けてがつがつ食べていたあの感じで、がんばっていきます。

 

 

 

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