今週のバキ道/第30話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第30話/力士の違和感

 

 

 

 

 

胸を貸す、ということで受け止める姿勢でいるバキに向けて宿禰は突撃したが、バキにはもちろんそんなつもりはなかった。鋭いハイキックが、なにが起こったのか宿禰に理解させない速度で襲いかかったのである。

受け止める、といいつつ蹴りをかます、その道理は、宮本武蔵の血統である。武蔵以前の強さの原理のなかに生きる宿禰にとっては、バキのとる行動は、相当に汚いもので、納得もいかないはずである。が、彼は表向きそういうことはいわない。ただ、あなたが強いことは認めるから、もういちどお願いしたいと、それだけいうのである。

そうして二度目、やはりバキはハイキックを繰り出した。だが今回の宿禰は「打たれる覚悟」を決めていた。『刃牙道』最終話で問われた、打たれる覚悟を決めた力士はどれだけ強いことへのアンサーになっているわけである。宿禰はたしかにこれに耐え、バキをとっつかまえて柵まで押し出すことに成功した。だがそれは、ただ体重を預けているだけといえないこともなかった。二度目の蹴りもやはり効いていて、宿禰の視界は歪んでいるのである。

 

明らかにダメージがあることを見て取って、ちょうど耳元にある口でバキが挑発する。キリあげてやろうかと。宿禰は、あのようにはいいつつも、まだ、じぶんのほうが巨大で、パワーがあるぶん、“ほんとうは”強いという意識があるようである。生意気なくちをきくバキを小僧とこころのなかで呼び、すさまじい表情で投げをうつのだ。彼はここで「闇で償え」ともいう。ただたんに気絶することを意味しているのだろうが、なかなか意味深長ないい廻しである。

だが投げる宿禰の左手には大きな違和感が宿ることになる。力士の、というか力士でなくても投げる動作をするものは、その手に相手の抵抗を感じることになる。意識して抵抗しなくても、地球には重力があるので、そのことによって生じる体重が、投げの方向に対する抵抗になる。だが、いまの投げの動作にはなんの手応えもなかったのである。なにをどうやったのか、地面すれすれまで顔が近づいていたはずのバキは、いつのまにかふわりと着地しているのだ。みずから跳び、投げに協力して加速し、動作の主体性を奪ったのである。宿禰の左手には果たされる不満(ストレス)が残るのである。こういう表現は、現場主義というか、じっさいに格闘技をやっているひとのものというか、やっぱり板垣先生は見事だよなあ・・・。

 

ことごとく「古代相撲的なもの」をつぶされていく宿禰だ、さすがに苛立ちが募っているようである。無抵抗なものと立ち合うことはできないと、ちょっとした詭弁をつかいはじめるのだ。たしかに、宿禰は、命の奪い合いをしたいとか、技術比べをしたいとか、そんなことはいっていないわけである。ぶつかりあいたいのであり、バキはそれに胸を貸すということで応えたのだ。宿禰にも一理ないわけではない。だけれどバキは策を弄して直接にはそれに応えない。政治の討論をしよう、ということで新鮮な気持ちで集まったのに、言い回しとか論理的瑕疵とかそういうところばかりにとらわれて肝心の理想の政治のはなしができない、みたいな学生の気分だろうか。

というかそもそも、小さすぎるのだ。できるはずがないのである。宿禰は、からだばかりか、精神(こころ)も小さいという。宿禰なりの挑発なのだろう。バキにはまだぜんぜん余裕があるのだが、ココロまではどうよ、というところで応じたので、宿禰は、じゃあ次こそ、というふうにして、さらに仕切り直しである。次こそ、「胸を貸す」という宣言にふさわしいふるまいをとってほしいと。

 

バキがあえてふわっとさせてきたところがすべてことばにされてしまった感じだ。逃れにくい状況である。でも、どうしたらいいのか。まだバキには余裕があるっぽい。そこで彼は、なにか妙な動作をとる。そして再び構えなおしたとき、彼には恐竜が宿っている。トリケラトプス拳なのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

なるほど、たしかに、バキが「小細工」を用いずに、なおかつ、多少の余裕を残してちからに対抗するには、これしかないかもしれない。というか、バキにはこれがあったのだ。忘れてた。

 

ただ、宿禰に通じるかな、ということはある。トリケラトプス拳は相手のイメージ力に訴えかける技だ。相手がピクルだったときには、もちろんピクルはトリケラトプスのことは知っているから、非常に有効だった。あのときではもはや、これがじっさいにどの程度の破壊力やスピードを宿すものなのかということはまったく無関係ともいえたのである。だってピクルは、懐かしい恐竜がそこに現前したというその事実だけでじゅうぶん動揺するからである。だが、相手がピクルでなくても、たとえば勇次郎でも、それが「トリケラトプス」に対して強さのイメージを抱えていれば、それは強いものになる。要するに、ここであらわれてくる、たとえば衝撃とか破壊とかは、すべてそれを受ける相手が自らつくりだして、共同作業で実現してしまうものなのである(バキが勇次郎戦でトリケラトプス拳を見せた回、副題は「共同幻想」であった)

だから、極端なはなし、相手がテレビや映画や本などを通して、これまでの人生でまったく「恐竜」というものに触れてこなければ、この技はなんの意味もない、ただの上段受けと内受けと前屈立ちである。宿禰は、バキの構えを見て視線の高さをわずかに変えているようでもあり、たしかにそこにトリケラトプスを見出してはいるようだ。けれども、彼は案外現実家でもある。あそこまで体重の多寡にこだわり、それを見せつけようとするのだ、バキがイメージで繰り出すものもまた「小細工」に過ぎないと切り捨てられてしまえば、意味がない。

 

だが同時に、現実家だからこそ、という可能性もある。というのは、体重が多いほうが強いというはなしなのであれば、トリケラトプスのほうが彼より重いからである。彼より重いものを、いまこうしてありありと感じ取ってしまっているわけなのである。重いものが強い、というリアリズムを、彼がみずからイメージするトリケラトプスに適用してしまったら、これは有効ということになる。

 

 

宿禰は「闇で償え」という。バキが、(かわいそうだから早めに)キリ上げてやろうか、と哀れみをくちにしたのを受けて、それを「大罪」として、償え、というはなしだ。もちろん、バキはそのつもりで、つまり怒らせるつもりでこれをいっている。だが、哀れみに対して怒りで応じるとき、ひとは自尊心とかそういうものを傷つけられて、それを否定しようとして怒るだろう。だが宿禰は、「力士を哀れむ」という行為を「大罪」として、怒っているのである。これは二重に彼の自己像が客観的なものであることを示している。まず、バキが哀れんでいるのは「力士」ではなく「宿禰」であるところ、彼は、じぶんを力士という存在として規定しなおしたうえで、その「力士」を哀れんでいる、というふうに現状を読み換えている。また「罪」という語は外部に法を想像させる。「法」とは、明文的な法律ばかりではない。要は、決まりとか、慣習とか、そういうことだ。「罪」という言葉は、「力士を哀れんではいけない」ということを決定しているのが彼、宿禰ではないことを示しているのである。

彼の自己意識は、二代目野見宿禰ということや、大相撲との確執も含めて、そういう、他者的な目線から構築されている。これを、彼の潔癖症的な善性の表現として受け止めてもいいだろう。宗教性といってもいい。宿禰の清潔感、やたらと「善」を押してくる雰囲気、これらをなす根本的なものが表明された場面なのである。

だが同時に、彼はじっさいに怒っている。苛立ってもいる。彼は、ほんとうは、プライドを傷つけられて、「この自分を哀れむことなど許さない」と感じているにちがいないのである。だが、宿禰はそうとらえない。その感情はすぐさま抑圧されて、「力士を哀れむことは罪である」というふうにあたまのなかで言い換えられるのだ。ここからは、彼の「訓練」が見て取れる。彼は、宗教者的な雰囲気を出しつつも、感情をあらわすことをそれほどには厭わない。だが、それをするときに、読み換えを行う「訓練」をしてきたのである。なぜなら、そうでなければ、強さを競い合う舞台に立つことはできないからである。特にバキ世界では、相当なベテランのファイターでも、ときには感情を爆発させることがある。そうでなければ、そもそも闘争ということにこだわり続ける動機を保持することができないからだ。宗教的な覚醒と、いってみれば「暴力」であるところの強さ比べを並存させる方法、それが、宿禰の「訓練」なのである。つまり、感情を抑えることはあっても殺すことはしない、そしてそれを発露させる際には、外部的なものを経由して、自分自身の怒りとしてはとらえない、そういう回路を、彼は「宿禰」であるために作り出してきたのだ。

だがそれは、宿禰であることを助けはしても、現実のファイトでは足かせとなるにちがいない。というか、直情と策略を行き来するバキのようなしたたかなファイターの前では、そういういわば芝居をするものは、必ず後手にまわることになるだろう。なんとなく、バキはそれを見抜いているんじゃないか、という気もする。