『ヒロシマの人々の物語』バタイユ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ヒロシマの人々の物語』ジョルジュ・バタイユ著/酒井健訳 景文館書店

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジョルジュ・バタイユによるヒロシマ論。ヒロシマをさらに大きな濁流へ開かせながら、バタイユは、戦争回避の普遍経済学を模索する。原爆投下から一年半たたない1947年初頭に『クリティック』誌に発表された“夜をさまよう人”バタイユの意欲的論文」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

このあいだウシジマくんの童貞問題の記事でバタイユに触れて、そういえば、『内的体験』みたいな挫折したやつ以外に最近なにかを買った気がするな、ということで発掘した。翻訳の酒井健は国内でバタイユについて学ぼうとしたら必ずぶつかるひとで、すぐ手に入るものはたいがいこのかたの翻訳であり、入門書も書いている。

相変わらずバタイユはなにをいっているのだかぜんぜんわからず、記事を立てたところで解説も感想もないが、やはり、言い知れぬものがあって、最高としかいいようがない。思想の本はやはりこうでないと・・・。そして、この景文館書店の出している、シリーズというかなんというか、カバーなしのペーパーバック的な製本がすばらしい。これを買ったのは1年くらい前だとおもうけど、それまでこうした本が存在していることは知らなかった。本書でいうと、ごく短い、30ページくらいの論文が載っているだけで、同程度の分量で解説が添付されている感じの、ほんとうに手軽な一冊なのだ。ふつう、現代思想の本を読もうとすると、文庫でもなんでも、最低でも1500円は覚悟して、高いときは8000円とかの本を手に入れて、長い時間をかけて読んでいくわけだが、その1章、いや1節ぶんくらいの論文だけが、完結したかたちで提供されているわけである。長い論文から抜粋したわけではなく、そういう短いものをチョイスしているわけだから、その意味では選択肢も限られるはずだが、いずれにせよたとえばここでそれはバタイユということになるが、なんでもいいからその思想に触れたい、なんていうときに、6000円の、辞書みたいな本を2年くらいかけて読む、というのは、市井のインテリにはハードルが高すぎるわけである。だが30ページならいける。こういう売り方、というか読み方が存在しうるということがまず驚きだったし、ちょっと感動してしまった。ぼくは読むのが遅いので、ほんとうにぴったりの発想である。出版業は、ただ存在しているものを紙に印刷しているだけではないのだ・・・。

 

「ヒロシマ」という語がタイトルに含まれた論文で、基本的には近代人である異能の哲学者が書いた本であるわけだが、いったい、このタイトルからどのような内容が想像できるだろうか。「ヒロシマ」は世界史を見渡しても例がない圧倒的悲劇である、したがって否定すべきものであり、戦争の反対の根拠になりうると、こういう理屈は常識レベルでは即座に成り立つので、「戦争反対」というソリッドな主張を、読者は読む前から予感するかもしれない。が、バタイユがそんなたんじゅんなものを書くはずはないのである。戦争反対とか、戦争礼賛とか、そういうカテゴライズは、主張にはなっても、それがなにを意味するか、自己言及的な性質を損なってしまいがちだが、それは、それが対極にあるからである。「戦争」という現象に関する思弁の果てにあるものなのである。だから、「あのバタイユ」がヒロシマのことを書いている、ということで、じゃっかんの感傷こみで読みはじめると、わけがわからなくて戸惑うことになるだろう。

 

経緯としては、終戦直後、1946年に発表された、ジョン・ハーシーによるヒロシマのルポ、『ヒロシマ』の書評ということで発表されたものである。『ヒロシマ』のおぞましい描写はヨーロッパの人々にたいへんな衝撃を与えたはずである。バタイユは、ハーシーのとった方法が自国フランスの人々に欠けているものを加えたという。それが動物的なもの、感性的な視座である。感傷ではなく、非人間的、とでもいったほうがいいかもしれない。対して“人間的”な視点は、本文ではトルーマンの言動が例にとられている。それは、原爆をこれまでの爆弾の量的拡大として、数値のなかにとらえ、歴史の流れに位置づけようとするものである。トルーマンの言動が、近代の道徳や研究を踏まえていないのは当然として、そのこともこみで、原爆をただの「前代未聞の強力な爆弾」というふうにとらえるありよう、それが「人間的」ということだ。フランスのひとびとからすれば、ヒロシマの現実は「人間的」を超えることはなかったはずである。ハーシーのとった方法はこれを「動物的」にさせたのである。

ぼくは知らなかったが、バタイユには「普遍経済学」という展望があって、本書はそのはじまりを告げる論文のようなものらしい。だから、のちに構成される理論を少しも知らないままでは、特に後半部分、バタイユのいっていることはひとこともわからないだろう。じっさい、ぼくはわからなかった。いまもよくわからない。酒井健の解説を読んで多少つかめたような感じもするが、それでも、じっさいにバタイユの論文に触れていかないことにはどうにもならないだろう。バタイユはこの「ヒロシマ」という事件に瞬間の視点を見出している。本文では「明日への配慮」という言い回しになっているが、ひとは、明日の暮らしのために生きているわけである。労働のこととか、毎日のルーティンのこととか、俗なとらえかたをしてもいいだろう。これは「人間的」の、建設的な領域である。しかし、「ヒロシマ」のような惨劇では、そうした理性の枠組みは消し飛んで、混乱した生の濁流のようなものが瞬間世界を満たすことになるのである。どうやら、戦争に至るのはその建設的で生産的な「人間」の営みであり、普遍経済学は動物的な瞬間の道徳から広がっていく理論のようだが、そのあたりはまた別の本で追っていこう。バタイユにかんしては紹介してくことすら困難なので、記事を書くことはあきらめて粛々と読んでいくことにしようかな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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