『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン | すっぴんマスター

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■『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン著/木村浩訳 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「1962年の暮、全世界は驚きと感動で、この小説に目をみはった。当時作者は中学校の田舎教師であったが、その文学的完成度はもちろん、ソ連社会の現実をも深く認識させるものであったからである。スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日を初めてリアルに、しかも時には温もりをこめて描き、酷寒(マローズ)に閉ざされていたソヴェト文学界にロシア文学の伝統をよみがえらせた芸術作品」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

ロシアの作家といえばドストエフスキーやトルストイということになって、ずいぶんむかしのひとになってしまうが、むろん、近現代にも優れた作家はいる。ソルジェニーツィンは戦後の作家だ。本作は、第二次大戦後に友人との手紙のやりとりでスターリン批判を行っていたために投獄され、8年の刑期と3年の追放を受け、その間の経験をもとにして当時のソ連のありふれた状況を描き出したものだ。

 

 

主人公はイワン・デニーソヴィチということになるが、これは作中ではシューホフと呼ばれていて、文字通り、この人物の、強制収容所を意味するラーゲルにおいての起床から就寝までが、親しい友人に説いて聞かせるような不思議にのんびりした速度で語られていく。

 

ぼくがロシア語の勉強をはじめて半年ほどになるが、いまだにロシア人の名前がぜんぜん覚えられなくて参る。それでも、収容所のなかでシューホフとかかわる面々は個性豊かなものたちばかりで、いつもの「響きのなかにキャラクターを見出す」やりかたでなんとか覚えていった。そうしたひとびとは、誰もなんらかの理由、口実があってラーゲルに送られてきたのだが、じっさいにはそれらはほとんど理由になっていない。「中佐」と呼ばれるブイノフスキイは、イギリスの艦隊にいたことがあるとかで、戦後に提督から記念品を贈られたことで投獄された。たよりになる班長のチューリンは、ラーゲルでは大ベテランで、父親が富農だったために送られたようだ。シューホフじしんも、ドイツの捕虜だったところを逃げ出したのが、それは信用してもらえないということで、たんに捕虜だったとして、捕まっているのである。あまりにも理不尽な理由で捕らえられ、想像を絶する困難な生活を長期間、ひとによっては人生の大半の時間強制されるわけである。国への呪詛や、仮にそれが祖国に向けられないとしても、もっといらいら非建設的な毎日になったりとか、してもよさそうなものだが、シューホフをはじめとしてラーゲルに住むものたちは、なぜか、どこか充実している。毎日が非常に厳しいものであることは変わらない。そういうなかで、それぞれの生命力を燃やして、創意工夫を重ね、ほとんど幸福感すら見出しそうな生きかたをしているのだ。チェブラーシカというロシアのアニメには仕事をさぼっている労働者や故障中のエレベーターなどが登場するが、あれらは旧ソ連の社会主義経済が導いた必然のようである。要するに、競争原理というものがないから、がんばっても、また有能でも給料がよくなることがないので、誰も真面目に働かないのである。こうした視点で考えると、ラーゲルのものたちはひどく働きものである。彼らの労働には給料が払われるわけではない。しかし、シューホフをはじめとした従業者は、ほとんど誇りをもって仕事をしている。強制されている仕事なのだ、時間がきたらすぐに作業を中止してもどればいいところ、点呼に間に合わないかもしれないリスクをとってまで、シューホフはぎりぎりまで粘って、完璧な仕事をこころがけるのである。たとえばそれがシャバでの仕事なのであれば、金ではなく祖国のためとか、動機付けもできそうだ。しかし、シューホフにはそういう雰囲気もほとんどない。仕事それじたいに価値が見出されているのである。

 

 

作者のソルジェニーツィンじしん収容所で暮らしていたこともあるし、その後の動きからしても、基本的には拘束とたたかってきた人物である。これは、収容所暮らしが肯定的に書かれているとか、そういうなかにもひとは幸福を見出すとか、そういうことではない。だが、おそらく事実として、ソルジェニーツィンにはそういう感覚があったのだ。

 

 

ラーゲルには家族などから「小包」が届く。じぶんのところに届くまでいくども検閲されるし、そのあともうまく保管しておくことは難しいのだが、とにかく届くことは届く。だが、シューホフはしばらくしてからこれを家族に断ってしまう。ほかならぬシューホフが主人公であることの理由は、おそらくここにあるだろう。アイデンティティの問題なのだ。解説にも指摘されているように、ラーゲルは外部にあるソ連の社会の縮図であって、さまざまな身分のものが乱暴に押し込まれており、そこかしこに、外部の世界のにおいを感じることができる。しかし、それはどこまでも「縮図」でしかないのである。また、「祖国のため」という動機も、根底にはあるのかもしれない。

刑務所など、社会から隔絶された世界に生きるものは、なにを足場にして生きるのだろう。つまり、そこにいる彼は何者なのか、ということだ。それはやはり、どうあれ、犯した罪によるのではないかと考えられる。ある認められない罪を犯し、その代償に、彼は刑務所暮らしをしている。だから、彼が刑務所にいることの根拠は、社会で罪を犯したことにおかれる。刑務所暮らしはある種の停滞なのであって、隔絶はされても、彼は依然として外部の人間であり、そこからなにかをマイナスされたような、ネガティブな存在として、反省するにしてもしないにしても、自己規定することになるにちがいないのである。しかし、ラーゲルのものたちはどうだろう。彼らは、罪を犯したのだろうか。みずからを祖国にとってマイナスの存在であると自己規定することは、果たしてできるのだろうか。こうしたところに、さらに、そこかしこに感じられる祖国への感情もある。現政策に批判はあっても、祖国へのおもいはかわらない。もし、罪をとがめられ、投獄されたことそれじたいが「まちがい」なのだとすれば、ここにこうしていることも「まちがい」であり、怒るにしてもあきらめるにしても、彼の足場は外部に置かれるだろう。また逆に、祖国への盲目的なおもいから「正しい」ものだったのだとしても、そうなれば彼はマイナスの存在となり、やはり足場は外部になる。シューホフにおいては、このどちらの解釈も拒まれているのである。そうした先に、まるでラーゲルが世界そのものであるかのように、客観的には「縮図」であるその場所で、独自の存在価値を見出そうとして、その結果が、あの誇らしささえ浮かぶような仕事っぷりなのではないだろうか。それがわかった、そう生きるしかないと確信したから、彼は小包を断り、一時的に外部から離脱することにしたのである。