今週のバキ道/第14話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第14話/三角形の強み

 

 

 

 

 

二代目・野見宿禰とオリバが相撲で激突した。オリバの体当たりはなんらかの理由で通用せず、さらに持ち上げようとするちからも無効にされてしまう。逆にオリバは軽々投げられ、ふりまわされてしまうのだった。

 

 

脇の下に手をいれて、小さな女の子でも抱えるスクネがオリバを保持している。

スクネは、三角形が制する角力の世界で、このような見栄えだけの逆三角形は通用しないと説明する。オリバはものすごい腹を立てているようだが、光成は納得している。彼は、二人が向き合ったときに違和感を覚えていた。トランクス姿では圧倒的な存在感でバルクを誇示するオリバが、廻し姿ではどこか痩せて見えたのだ。それはスクネもいっていたことだ。相撲において接地が許されるのは足の裏のみ。足指の裏、爪のところでさえ許されない。さらに土俵は直径4.55メートルということで非常に狭い。こういう条件では、なによりどっしり動かないことが重要なのだ。そうなってくれば、オリバの三角形はいかにも不向き、重心が下にあるスクネの体型が理想になってくるのである。けっきょく、まわしはそういう競技の果てに、必然性をもって出てきたものだから、「廻し姿」というものにすでにそうした相撲的要素が含まれているのだ。つまり、廻しは、それじたいで、三角形の形を要請するのである。だからどことなくオリバの姿が奇妙だったのである。

オリバの体重は140キロを超えていようと光成は続ける。ゲバルがいうには150キロを超えているそうだから、これはまあ、オリバの体重がいくつかというはなしではなく、続く体当たり、ぶちかましに続くものだろう。何キロであれ、そのくらいの重さはあるものの立ち合いは殺されてしまったと。さらに、デッドリフトなら半トン、500キロを超えようかという背筋力がオリバにはあるが、せいぜい200キロ超のスクネは微動だにしない。光成はこれを技術、技量の大きさと見たようだ。オリバのデッドリフトの値もまた、これがマックスということではないだろう。だってハーレー片手で20メートルくらい投げちゃうんだから。調べたら、330キロを超えるものもあるそうだ。まあ、あのときのオリバは怒りで我を忘れてるみたいなとこあったから、あのあとすごいからだ痛かったかもしれないけど、でもできてはいるわけで、たぶん、高レップ行うときの重さがこの程度だとして、少なくともやっぱり700800キロくらいは余裕なんじゃないのかな。

 

 

落ち着きを取り戻したオリバが、いつまで抱っこしてるのかとクレームをつける。スクネの怪力・技量を感じ取って、たぶん戦略を決めたみたいなところだろう。もうオリバの次のたたかいははじまっている。

おっしゃる通り、格好だけの三角形では逆三角形には勝てない、とオリバは笑いながらいう。オリバにとっての筋肉はマリアのためのものなので、格好だけといわれてもまんざら悪い気分ではないのかもしれない。

ともあれ、それは相撲に限ったはなしである。シンプルな闘争、とどめまでを決着とするフリーファイトなら、話は別だと、圧倒的なバスキュラリティで挑発するのである。

オリバは、天が教えてくれているという。自然界では、細いウエストのハンターが太いウエストの巨漢を捕食する。スズメバチなどの昆虫も同様である。カマキリにいたっては顔が逆三角形である。三角形が有利なのは相撲という限定的な条件下においてのみであり、どちらが自然かといえば、ウエストの細い三角形なのだ、というのがオリバの主張である。

スクネは、まあどちらでもいいという感じで、おだやかにこれを受ける。ただ、彼も相撲以外のたたかいははじめてのようだ。オリバが、緊張をほどくように、アメリカ人の俺にはわからないが、相撲には開始の合図が・・・などとはなしはじめる。スクネはそれに答えて、例の互いに呼吸を合わせて、と説明しようとする。が、これはオリバの作戦である。とっくにたたかいははじまっているのだ。オリバの右拳がスクネの頬にめりこむのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

次号休載。再開は次々号。

 

やはりオリバにもまだチャンスはあるようだ。相撲にも張り手があるので、顔を殴られることに耐性がないとはおもえないが、しかし拳はどうだろう。やはり拳は禁止されているらしい。そもそもスクネがどうやって稽古をしているのかという問題もある。たとえば投げにかんしては、むかしの柔道家の山篭りみたいに、大木を抱えてとか、工夫しだいではなんとかなりそうである。しかし、今回のようにじっさいに廻しをもたれたときとか、張り手などの打撃にかんしては、ひとりでの稽古には限界がある。それこそ勇次郎みたいに崖から落ちるとかしないといけなくなる。リアルシャドーをするにも、経験したことのないものを復元するのは難しいだろう、とおもったけど、バキは学者ですら姿をよくわかっていないティラノサウルスを復元してたな。弱い打撃でも、たしかに経験さえしておけば、スクネレベルの想像力をつかってそれを拡張して、強い打撃をみずからに刻むことも可能になるかもしれない。

 

 

今回はオリバが闘争のリアリティを持ち込むことになった。先手必勝、不意打ち、こういう概念があるいは卑怯であるとする考えは、どこから出てくるものだろう。フリーファイトといえば、前作で宮本武蔵が究極のところを見せてくれたわけだが、彼のことを、現代のひとはえげつない、卑怯なファイターであり、それだけにリアリストである、というふうに受け取るだろう。しかし、どうだろう、いま五輪書を拾い読みしてみた感じだと、先手必勝を語る武蔵の口調には、なんというか、悪であるけれどもどうしてもそうすべし、というようなニュアンスは感じられない。ただ、ひとはそのときどきで、慣例とか、流儀とかにしたがってしまうから、硬直する。そういうところで柔軟に対応していかなければならない、相手にとって悪いことをしていかなくてはならない、というふうである。

卑怯という感覚の由来にかんしては、たとえば騎士道精神からきた発想だとか、キリスト教の平等の考えから出てきたものだとか、それとも現代の法の感覚がもたらすものだとか、研究の必要がありそうだが、ここで重要なことはスクネがそれをどう受け止めるかである。スクネは、神の番人として相撲を修めている。その根本には、初代スクネの力比べがあり、これはフリーファイトである。それが、それこそダイヤモンドがつくられるように濃密に結晶化したものが相撲であると、おそらく彼はそうとらえているだろう。だとするのであれば、技術の集大成であるスクネは、オリバ的なフリーファイトを、卑怯ではなく、たんに拙いものとみる可能性がある。不意打ち、ということになれば、意識の外からきた攻撃ということになるが、それすら含んでいたフリーファイトが結晶化した相撲には、別のかたちでそれが受け継がれているはずである。武蔵のばあいは、闘争とはそういうものである、混沌としたものである、という受けとめ方だった。しかしスクネでは、それもおそらく技術としてすくいあげられているのである。

 

 

しかし同時に、彼は神の番人、正しきを実行するものである。たとえば不意打ちを行うためには、虚言をする必要がある。嘘をついたり、なにかのふりをしたりしなければならない。こういう、「不意打ち」に至る要素が、闘争とは別に不正である、邪であるととらえられる可能性はある。次にスクネがどういうリアクションをとるのかで、作品の方向性は決定すると見ていいだろう。

 

 

※noteに板垣恵介論を書きました!

https://note.mu/tsucchini2/n/n75994596ae92