月組東京公演『エリザベート』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

三井住友VISAカード ミュージカル
『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ
音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ
オリジナル・プロダクション/ウィーン劇場協会
潤色・演出/小池 修一郎
Original production: Vereinigte Bühnen Wien GmbH
Worldwide Stage Rights: VBW International GmbH
Linke Wienzeile 6, 1060 Vienna, Austria
international@vbw.at www.vbw-international.at
ORIGINAL PRODUCTION BY VBW VEREINIGTE BÜHNEN WIEN

1996年の初演以来、独創的なストーリーと、美しい旋律で彩られたミュージカル・ナンバーで多くの人々を魅了してきた『エリザベート』。上演回数は1000回を超え、観客動員数240万人を記録するなど、名実ともに宝塚歌劇を代表する人気ミュージカルとなりました。宝塚歌劇において記念すべき10回目の上演となるこの度の月組公演では、作品毎に着実な進化を遂げている珠城りょうがトート役に、この公演での退団が決まっている愛希れいかがエリザベート役に挑み、新たなる『エリザベート』の歴史を刻みます。

 

 

 

 

 

以上公式サイトより

 

 

 

 

月組東京公演『エリザベート』観劇。2018年11月14日13時半開演。

 

 

人生で4回目のエリザベートになる。いちばん最初は宙組の姿月あさとトートのやつで、これは何回も観にいったなあ。その次が月組の、瀬奈じゅんトート、凪七瑠海エリザベートだった。宙組を何回も見すぎたせいで(ビデオも毎日見てた)、どうしてもそれ以外のキャスティングに馴染めなかったのだが、次の2014年花組明日海りおトートを見て、これもDVDでくりかえし鑑賞していって、ようやくその凝りがほぐされて、ニュートラルに作品を見れるようになってきた感じである。再演の時点ではまだ相対になっちゃうけど、三つみると、そういうみかたがほどけていく、ということかね。

 

 

そういう事情以外にもおそらく年齢的なこともあって(ぼくは今年35です)、以前とは読み取る箇所というか、感情移入する先だとか、視点だとか、感動のポイントだとか、いろいろ変わってきてるんだなあ、ということもすごくおもった。エリザベートは構造が自覚的に構成されている作品なので、たとえばぜんたいをルキーニの妄想とする説だとか、エリザベートのタナトスとして物語を見る向きだとか、トートは概念にすぎないところを宝塚が肉体的なものにしたとか、そういう構造的な視点で捉えがちで、それはそれで有効かつおもしろいのだけど、より純粋におはなしを楽しむことができるようになってきた気がする。まあ、今回は愛希れいか退団公演ということもあったとはおもうけど。出かける前は別にそれほど気にしていなかったのだが、特に1幕最後に「エリザベート」が完成した場面を見て、娘役というイデアが実現したかのような、技巧の結晶のような愛希れいかの姿も重なり、ありえないほど泣いてしまった。いやはや、あんなにぼろっぼろ涙が出たことは、たぶんいままでの人生でいちどもなかったとおもう。アリスの恋人あたりではじめて愛希れいかを知って、もともとぼくは月組っ子だったから、ずっと見てきたからね。

 

 

非宝塚ファンも読んでいるとおもうので、ざっとあらすじを説明しておく。有名なミュージカルなので、教養として知っておいても損はないです。

語り手はルキーニという男。エリザベート殺害の、じっさいの犯人で、動機がわからないので、死後煉獄でずっと裁判をしている感じだ。ルキーニは、じぶんがどうとかではなく、皇后じしんがそう望んだのだとして、経緯を説明し始める。これが物語のはじまり。ルキーニはギリシャ悲劇のコロスのようなもので、基本的には外部から物語を語りつつ、ときにはじっさいにその場にいる人物に扮したりして、はなしを進めていく。

時代は19世紀後半。エリザベートはバイエルン王国の娘、ただし次女。

小さいころから王室のかたくるしい生き方が嫌いだったエリザベートは、父親の自由な生き方にあこがれていて、男の子といっしょになって遊びまわってるような感じの女の子だった。そうして、ムチャをして高いところから落下、意識不明、というか実質死亡することになる。その際に、冥界の入口のようなところで、黄泉の帝王トートと面会する。トートは、通常業務というか、いつものように死んだその人間をあの世に送ろうとするが、生命力いっぱいのエリザベートはそれを拒絶、それを受けて、トートは彼女に恋をしてしまう。そして、生きた彼女に愛されたい、ということで、彼女を生かし(復活させ)、彼女が人生の進むうちにみずからじぶんを、つまり「死」を求めるようになるのを待つことになる。

エリザベートの母親の姉、つまりエリザベートのおばさんであるゾフィーは現オーストリー皇帝のフランツ・ヨーゼフの母親であり(要するにエリザベートとフランツはいとこ)、この国を陰で牛耳っているが、エリザベートの姉であるヘレネが、その皇后として迎えられようとしている、ところで、お見合いの席で、フランツは無邪気に遊びまわるエリザベートのほうを見初めてしまい、彼女がオーストリーの皇后になる。予定通り運ばない、しかし番狂わせがおもしろい、ということで、トートは歴史を裏から操るようにして、さまざまな苦難をエリザベートに与え、みずから死を望むよう仕向けていく。そういうおはなし。自由を求める気質は王室に嫁いでも変わらない。エリザベートは、しくみに属するパーツとしてではなく、「私」そのものとして生きていく。それは、エリザベートの強さであるとともに死に傾く契機ともなりうる。そのたびごとにトートはあらわれ、誘うが、エリザベートは拒絶、場合によっては、ただ逃げたいからということで死を求める彼女を、トートのほうから、死は逃げ場ではないとして拒むこともある。

 

 

こういうはなしであるから、作品として、トートをどのように演じるか、主演がどのように解釈するかで、雰囲気が変わってくる。エリザベートとトートのあいだにはコミュニケーションが成り立っているが、表出に至る以前の地点で、トートは物理的な存在ではない。トートはドイツ語で「死」「死神」を意味するそうだ。おや、「死神」も含むのか、とおもったが、これが各国で翻訳されるにあたっては、たとえば「DEATH」という具合に、「死」のニュアンスを採用しているようである。宝塚では原則男役トップスターが主演をつとめることになるので、そうすると、ふつうにやったら、男役がトートを演じ、娘役トップがエリザベートをやることになる。つまり、主人公がトートになるのである。こうした事情があって、ウィーンでの作品をオリジナルとしたとき、そこにトートを表現する主題曲をプラスして、宝塚では上演されることになる。しかし、そうしたいわば便宜的な変更はあっても、根本的な物語は変わらない。だから、物語ぜんたいが「エリザベートは死を求めていた」とルキーニが主張している内容そのままを再現したものであるとすることもできるし、それを踏まえて、通常はあまりおもてに出てくることのないエリザベートのタナトスを表現したもの、とすることは引き続き可能だ。タナトスは、エロスでは説明できない現象を前にしたフロイトが、それを回収するものとして想定した「死への欲動」のことである。にんげんの行動はたいがい、エロスで説明することができる。しかし、なぜかすすんで不快を求めようとする面もあるようである。たとえば、戦争から帰還した兵士が、ほんらいであれば忘れたくてしかたのない、戦地でのいやな記憶を、夢のなかでくりかえし反復してしまうとか、そういうことである。これはエロスでは説明できない。そうして、重力によって光が曲がることが、そこに大きな星があることを示すように、フロイトはタナトスを置くことにしたのである。だから、ある意味では、タナトスは、エロスの合理性からはずれたにんげんの不合理全般を指しているとも考えられる。「エリザベート」の物語が明らかにしていることは、にんげんにとっての非合理は、別のところでは合理性をもっている可能性がある、ということでもある。こういう視点を、今回ぼくはもつことができた。たとえばゾフィーのように、エリザベートの主観からすれば理不尽でしかない行為をとるものの背景にも、おのおのにとっての合理性がある、そのことが、トートが歴史を背後から操っているというふるまいを通して、中立的にあらわれうる構成になっていたことに、気がついたのである。

 

 

エリザベートの主観、合理性を足場にした場所では、トートは不可解な存在である。じぶんがなぜ不快を求めるのかわからない、という感情は、そのまま、トートの存在の謎に接続するからだ。ここで、主演がトートをどのように解釈したか、ということが生きてくる。肉をほどこされてはいても、徹底して冷たく、概念としてふるまうことは可能だろう。だが、トートは恋をしている。それが、もだえを呼ぶ。概念としてのトートのふるまい(と呼んでよければだが)は、形而上学的なもので、超越することのできない合理性を抱えているだろう。概念としてのトートを相対化することは、通常の人間にはできない。それが、もっともエロス的な感情とも考えられる恋をしてしまう。それは、同時に、彼自身も、タナトスとはいわないまでも、不合理をかかえうるようになった、ということも示している。ほんらい死の本業ではないはずの歴史操作にまで手を伸ばしていることが、すでに逸脱なのだ。こうしたところにトートの人間性はあらわれる。もし「冷たいトート」に足場をおけば、このもだえ、引き裂かれは、彼にとって苦しみになるだろう。しかし「人間トート」に足場をおいたときには、これはもう少し微妙な表現になる。なぜなら、人間が合理/不合理に引き裂かれるのはむしろ自然なことであるからだ。今回主演の珠城りょうは、もともとのぼくがもっているこのひとのイメージもあるとおもうが、そうした人間っぷりに足場を置いているようである。そして、直感的な感想になるが、同様に人間性に足場をおいているとしても、トートじしんの内面から出てくる恋(おもえばその現象じたいが不合理なわけだが)にこだわるというよりは、エリザベートとの関係性を通してはじめてトートじしんのありようも像を結び始める、というようなものにおもわれた。なんというか、若いのである。若者の恋がすべてそうだということではないが、恋に落ちて肉体を獲得したことそれじたいにこだわるあまり、トートはむしろエリザベートを見失っているのだ。だから、エリザベートがいるところではじめて、彼はトートになる。珠城りょうは相手役をほんとうに大切にあつかっていることが伝わる役者だが、たぶんそういう傾向があらわれてきたものでもあるだろう。珠城トートは、単独でいるばあいでは、まだ未完成なのである。そのあたりは明日海りおとは対照的だった。

 

 

概念としてのトートは作品のなかで超越だったが、この作品でもうひとつ超越しているものは、音楽である。もっとも、それはミュージカル、特に本作のような、台詞もほぼうたで行われる作品ではふつうのことだが、心情表現がうたで行われるのだ。このとき、その台詞がなんの曲の旋律でいわれているかで、その意味がわかる仕掛けになっている。いちばんわかりやすいのはトートのうたである「最後のダンス」だが、たとえば、ゾフィーにいぢめられていることをエリザベートが夫のフランツに打ち明けられたとき、フランツは、ぼくは君の味方だけど、母の意見はきっと君のためになる、みたいなことを、最後のダンスの旋律でいうのである。フランツの表情・口調は優しい。しかし、同時に、フランツは「がまんしろ」ともいっているわけである。もちろんこれはエリザベートを絶望させ、死に傾けさせる。つまり、このフランツの言動はトートの意図するところなのである。だから「最後のダンス」なのだ。本作は万事この調子である。作品を貫く「音楽」という真理が、トートまで含めて、すべての超越者となっているのである。名曲揃いになるわけである。

 

 

最初にも書いたが、愛希れいかは「娘役」というものの結晶みたいなもの、というか、結晶みたいなものについになったのだなと、上演中ぼくはずっと感じていた。もともとそつなくこなすひとではあったけど、ひとつひとつ、あそこまで水準以上にできるようになるには、ふつうの努力では追いつかないだろう。北翔海莉とか、あと華形さんもそうだけど、このひとが舞台上にいれば、仮になにかトラブルがあっても安心、というような役者っていうのがいるのだけど、愛希れいかもその領域に到達していた。宝塚独自の鑑賞法だとおもうけど、そういう背景みたいなものがエリザベートの強さと重なって、もう、冷静に見ていることはできなくなってしまった。いや昨日はほんとにこたえた。泣きすぎて終わったあとは腑抜けみたいになってしまっていたよ・・・。

 

 

フランツ・ヨーゼフは美弥るりかが行った。役者の資質として、もともと、どこかからだが弱そうというか、はかなさのある雰囲気なのだけど、それをフランツの我の弱さみたいなものに転じさせている。苦悩するというより、青白く苦しむ、という感じだろうか。今回は宝塚大劇場のほうの公演で体調を崩されてしまったのだが、昨日は見事に演じきっておられた。

美弥るりか休演の際にフランツを代役されたのが、ルキーニを演じる月城かなとである。このひとはまあほんとに、なにやらせてもすごいな。フランツの評判もよかったようだが、ルキーニもよく吟味されていたとおもう。ルキーニは、ストーリーテラーではあるのだけど、それ以前に、じっさいにエリザベートを殺害しているわけである。そこに至る決意というか段階みたいなものが、あの短い時間でスムーズに伝わらなくては、ただのトートの手先になってしまう。まあ、そういうぶぶんもないではないのだが、それ以前に、ルキーニもひとりの人間で、なにか理由があって、あの凶行に至ったわけで、こういうところをよく考えてこられたのだとおもう。ほんとに楽しみだなあこのひとは。

 

DVDも買ったので、これからゆっくり観ていって、いろいろ、受け容れていかなければな・・・。