今週の闇金ウシジマくん/第483話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第483話/ウシジマくん69

 

 

 

 

 

 

柄崎母の誕生会に呼ばれていた丑嶋。そこには戌亥もやってくる。滑皮をあいだにはさんでおのおのの社会的価値に生きるふたりは、いままで言明することを避けてきた事柄にも及びながら、静かな夜を過ごすのであった。

しかしそこへ、どうやったのか、丑嶋の居所を知っている滑皮が電話をかけてくる。豹堂のヒットマンがなにしてるのかと。もたもたしてると柄崎の実家もぐちゃぐちゃにするぞと。

 

 

 

 

「あんたの命令には従わない。

 

 

柄崎の実家の敷居を一歩でもまたいだら、

あんたの銃であんたを撃ち殺す」

 

 

「あ?なんか言った?

 

 

お前の生き死には俺が決める。

俺の命令は絶対に従わせる。わかったか?」

 

 

「もう誰にも従わない。

 

 

俺の生き死には俺が決めます」

 

 

 

 

なかなか決定的な場面だ。丑嶋は、進退きわまった、じぶんで生を選び取ることが不可能になったと感じて、自殺しようとまでしたのである。それが今回変化している。戌亥から滑皮の決意のようなものを聞いたからだろうか。

まあ、とりあえずは、これで滑皮の着信にびくびくする必要もなくなった。丑嶋は戌亥のネクタイをつかんで、この場所を教えたのかと問うが、どうもちがうようだ。とすると・・・?尾行はないよな。銃そのものに発信機でもついてるのか?

 

 

洗面所でぶっ倒れている柄崎を蹴っ飛ばして起こし、丑嶋は状況を短く説明、母親を連れてホテルに行けという。場所が割れていて、たったいまブチ切れさせたのだから、当然ここはもう危ないのである。

 

 

滑皮は即座に鳶田に電話、お前ら全員で野郎をさらってこいと命令する。全員というのは、シシックのことだ。なんだろう、やろうとしてることは獅子谷甲児と同じで、下手するとメンバーもいっしょなのに、本質的な迫力がちがう感じがする。

シシックの輩たちがスタンガンをもって、見える範囲でも8人、どこかに向かっていく。

 

 

そのころ、例のケバブのひとたちが描かれる。ケバブのふたりは、ぱっと見ふつうというか、どちらかというと冴えない感じに見えたが、あちらではそういうものなのか、不思議なデザインの、ちょっといびつな感じさえするイレズミを全身にいれているのだった。で、これはなにをしてるのかな。砂鉄をまぶしたようなあたまの男が上半身裸でベッドに座っていて、その前に、もうひとりが全裸にスニーカーで立っている。見れば見るほどなにしてるのかわからん。ベッドのうえには銃や携帯電話、腕時計、それになにか粉末の薬のようなものが転がっている。お楽しみの描写・・・ではないよな。彼らは滑皮の命令で丑嶋を見張っていたが、ここでこういうふうに描写が入るということは、滑皮のいう「お前ら全員」には彼らも入っているということだろうか。

 

 

 

丑嶋は高架下に来ている。滑皮から銃を預かってはいるが、以前のハブ戦ではなぜか弾が模擬弾で使えなかった。だから、実行する前に試すのだ。丑嶋は暴発するように細工されている可能性も考えるが、それについてはあきらめたようだ。電車が通るタイミングにあわせて発射。どうやらふつうに使えるようである。丑嶋は手応えを覚えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

いよいよ最終回が近づいているなあという感じだ。

丑嶋が自殺しようとしたことは、彼が人生を選び取る側であろうとして、これ以上できることがなくなったと判断された場合には、論理的には正しかった。生きるのであれ死ぬのであれ、不本意な選択を強いられることだけは、ウシジマくんとしては耐えられない。それがいやだから、彼はいまの生き方を選択したのであり、竹本を地獄行きにしたのだ。もしその生き方をいま辞めてしまうのであれば、竹本にかんするあの決断は無意味だったことになる。いま折れるなら、あのとき折れればよかったのだ。(人生を選び取ることと闇金の仕事をまっとうすることは同一線上にある)

しかし、彼にはほかにも守るべきものがあった。それは、カウカウファイナンスがもたらした人間関係である。柄崎母には母の面影を感じているだろうが、そうしたものもここでは一括してカウカウファイナンスがもたらしたものと考えよう。丑嶋は、裏社会で誰からも奪われないために金融、特に闇金を選択した。なぜ闇金か、ということは、長くなるのでもう分析しない。このじてんでは、滑皮の「自分勝手」という丑嶋の評価は正しかった。けれども、その結果としてやってきた人間関係は、彼にもう少し「自分」というものの領域を広げさせたのである。だから、そういう意味でいえば、彼は以前として「自分勝手」である。だが、それをいってしまっては、この世に自分勝手でない人間などいるだろうか、ということにもなる。

柄崎や柄崎母、それから高田や小百合のことは、彼がこの世界でいまの立場にいようとした果てに必然としてあらわれてきたものだ。ある面では枷でしかないこれらのものを守るために、ふつうは、当初の動機があきらめられることになる。たとえば、このまま滑皮に屈してヤクザになるとか、豹堂を撃ち殺すとかいった行動が、そういうものにあたる。そうしたとき、丑嶋は柄崎たちを守ることはできるが、同時にウシジマくんではなくなる。丑嶋にはここにも葛藤があったはずだ。そもそも、柄崎たちが「大切なもの」として立ち上がるためには、彼自身の野望が、根本的に必要だったはずなのである。忘れてはいけないことはなにかというと、そこの初期衝動なのである。

この初期衝動に立ったうえで柄崎たちを守ろうとしたときに、ついに滑皮を撃ち殺すという選択肢が出てくる。彼が、ハブを殺したように滑皮をやろうとは考えないのは、そうすることでこれからも同じことが続いていくということが明らかだからだ。感覚としては数学的帰納法みたいなものである。ハブとの経験が、彼にそのことをつきつける。滑皮を殺そうとすると、どういうことが起きるか。まず、今回のように、大部隊と対決することになる。しっかり滑皮を殺せるかどうかがすでに半々であり、仮に達成したとしても、そのあと生きていられるかはわからない。万が一逃げ切れたとしても、その先は同じことのくりかえしだ。その徒労感が、自殺しようとしたときの丑嶋にはやってきていたのかもしれない。だが、それを徒労であると感じるのは、その初期衝動に関してブレていたからだ、とも考えられる。というのは、つねに追われる存在になるのだとしても、彼は少なくとも、じぶんで人生を選び取ってはいるからである。丑嶋と滑皮は、ともに「生き死に」という言葉をつかう。彼らにとっては、死に方もまた人生に含まれる一事なのであって、だからこそ自殺という選択肢もありえたわけだが、それなのであれば、その生き方が生み出したところのカウカウ的なものを保護する目的で、その結果として死ぬ、または困難な人生を送る、ということも、論理的には正しいのである。

 

 

しかし、おもえば「死」までもが人生の内側に含まれているというのは、ずっとそうだったからスルーしがちだけど、なかなか壮絶である。どうやって死ぬか、まで考えて真剣に生きているひとが、この世の中にどれだけいるだろう。たいていのばあい、生というものは、死を回避するものとして営まれるものである。死がとなりにある人生だったから、といえばそれまでだが、気持ちひとつで身につくような人生観ではないだろう。

特に丑嶋について、死にかんする考え方が異様なのは、それが歴史目線ではないということである。洗脳くんのときに分析したが、ひとは、季節の移り変わりなど、生の時間感覚を超越した何事かに触れたとき、構造的な洗脳から逃れることができる。ここでいう洗脳とは、人生という枠組みといってもよい。三国志関係のゲームや映画などを見ていると、明日を夢見た末端の兵士たちが、顔も知らぬであろう軍師の指示にしたがってばたばたと死んでいくが、それは、じぶんの生が済んだあとの世界を想像的に体験できなければ達成できるものではない。この場合は、君主の思い描く理想国家、要するにイデオロギー的なものがそれを支えている。それが、じぶんの人生をこえて強いリアリティをもったときに、ひとは洗脳から解放されることになる。要するに、死を客観的にとらえるためには、「じぶんが死んでしまったあとの世界を想像する能力」が必要なのである。ふつうは、それは歴史的な目線に回収される。だが、滑皮の死生観についてはまだわからないぶぶんもあるが、少なくとも丑嶋にはそんなものはない。死んでから伝説のアウトローと呼ばれたい、なんて動機はないのである。

ではなにが死をとらえさせるのかというと、圧倒的に強いエゴなのである。じぶんがこうであるべきだと考えた、初期衝動的な生のモデルを実践するためならばどんなことでも行うという、強いこだわりなのだ。しかし、これはむしろ死が身近だったからこその人生観であるともいえるかもしれない。通常、ひとは、生を維持するために、そうしたポリシーはゆるやかな余白をもって抱えているだろう。「誰にも従わない」ということを逐語訳的に遂行していては、文字通り生きていけないからだ。しかし丑嶋では、生ははかないものである。どんなきっかけで転落して、闇金の世話になって、海外に飛ばされるかわからないのが人生である。死が隣にある世界で、彼は生の保持のためにその質を変えることより、望む質を保つことを選ぶ。結果としてそれは死をも呼び込むことになるが、それはもともとそうなのだ。そうした意味では、丑嶋の死生観は、歴史モデルではないにしても、構造目線ではある。生とは、死とはそういうものである、という達観があればこそ、丑嶋は生のありようのほうを重視するのだ。

 

 

そういうわけで、彼が今回おもいなおした背景には、柄崎母とのやりとりがあったとはおもうが、もうひとつは、やはり滑皮の背景を知ったこともあるだろう。丑嶋と滑皮は、出自的には同根である。丑嶋が滑皮に感情移入しているようなセリフも前回見られた。こういうところで、彼は滑皮の初期衝動を知ることになる。そのうえで、丑嶋は対決を選ぶ。父にかんして分岐したふたりが、その生き方をめぐって衝突するのだ。別に、どちらの生き方が正しいか、あるいは強いか、というようなことを競う、というはなしではない。だが、衝突は必然なのである。あるいは、必然である、そうすべきである、ということに気づいた、といったほうがいいだろうか。もっといえば、丑嶋は滑皮の生き方に応えるべきである、とどこかで感じたのかもしれない。じぶんは滑皮に反抗すべきであると。これもまた、構造目線であるともいえるかもしれない。ふたりがいつかぶつかるということは読者にもわかりきっていたことだ。当事者である彼らにわからぬはずはない。そのときがついにきた、というだけなのだ。