『少年時代』トルストイ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『少年時代』レフ・トルストイ著/藤沼貴訳 岩波文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「ママの死と同時に,私にとって,しあわせな幼年時代が終り,新しい時代――少年時代がはじまった」.思いがけずかいま見た大人の世界,ふと意識する異性,見慣れたはずの光景がある日突然新たな意味をもって迫ってくる…….誰にも覚えのあるあの少年の日のみずみずしい体験を鮮やかに写しだしたトルストイの自伝小説」Amazon内容紹介より

 

 

 

 

 

 

トルストイの自伝的小説三部作、『幼年時代』につづく2本目『少年時代』を読んだ。

チェーホフを通じてロシア文学に親しんできたものとしてトルストイは畏敬の対象で、その代表作の浩瀚さも含めてなかなか手の出ない作家だったが、ふとしたこと(沼野充義の『チェーホフ』)で手に取った幼年時代は意外なおもしろさであった。幼年時代はトルストイの処女作、20代のころのものであるから、ざっと150年前の作品ということになるが、太宰治が含んでいるような普遍性に驚いたのである。おもしろく、痛みや喜びがじぶんもよく知っている種類の記憶として感じられる、すばらしい作品だった。

 

 

『少年時代』は、『幼年時代』で愛する母を喪い、同時に主人公ニコーレニカの幼さを優しく包んでいたなにかあたたかなものも失われ、そうすることで皮膚のひりひりするようなよそよそしい外部が立体的に感じられはじめてくる、そういう、たぶん人生でもっとも精神的に不安定な時期を描いたものだ。前作でナターリア・サービシナと並んで印象的な周辺人物であったカルル・イワーヌイチも本作で退場する。たんに成長にしたがって自我が肥大し、環境と折り合いをつけるのが難しくなるのでなく、じっさいに彼らが退場していることは重要かもしれない。とりわけママにかんしては、『少年時代』においては保護者の代表にあたる祖母(ママのママ)が、この不在を嘆き、転じてニコーレニカの不出来を嘆く、という順序で働きかけてくるので、そうした洞察じたいはないのだが(なにしろまだ少年なので)、ニコーレニカがこころのどこかでじぶんの不出来と不調和を彼らの退場、環境のせいにしている可能性、あるいはしてもおかしくないぶぶんはあるとおもわれる。

 

 

ちょっと兄弟関係とか、てっきりいっしょに暮らしているのだから姉妹かとおもいきやそういうことでもない、みたいなことが多くて、混乱したが、祖母の待つモスクワに移住するにあたって馬車で移動している場面が冒頭にきており、まずそこで変化が兆す。カーチェンカという女の子との会話である。『幼年時代』でニコーレニカがダンスをしていた女の子かとおもったのだが、読み返すとあれはソーネチカで、カーチェンカというのは「初恋に似たあるもの」という章で肩にキスをした女の子である(ロシア人の名前が覚えられない)。そのカーチェンカが、なにかこう、ニコーレニカに対して冷たくなっている。子供らしいむやみやたらな陽気さを失い、ニコーレニカのテンションについてこようとしない。その理由を問いただされて、カーチェンカは、いつまでもいっしょに暮らしていけるわけではないし、じぶんはあなたの家と比べて貧乏である、というようなことをいう。カーチェンカはカーチェンカで、ニコーレニカに負けずとも劣らない、複雑な『幼年時代』と『少女時代』を抱えているはずである。裕福であるとか貧乏であるとか、そういうことがわかるようになってきたのは、彼女のなかで外部が際立ってきたためかもしれない。彼女にとってもニコーレニカのママの死は事件であり、ダメージがあったのだろう。そうした結果、ひとは死ぬということが学ばれ、みずからもそうした摂理の内側に含まれていることが悟られて、にわかに客観性が立ち上がっていくのである。と同時に、ここには韜晦が感じられないでもない。のちにカーチェンカが、ニコーレニカの兄であるボリョージャとかなり親密になっていくのをみても、貧乏云々はこの場を乗り切る口実であるようにみえる。要するに、大人になってしまったカーチェンカは、もうニコーレニカの感性についていけないのである。

 

 

母親の死そのものはニコーレニカにも事件であり、『幼年時代』の記事でも書いたように、ニコーレニカはその葬儀で他人の目を意識して悲しみを演出するじぶんに嫌気がさしている。だが、彼はもともとそういう子供だった。あの件は、少年時代への入口とは読めないようにおもわれる。ニコーレニカが兄やカーチェンカが(表面的には)スムーズに大人に移行していっているのに対し、ずいぶんもたもたと幼年と少年のはざまにもがいているように見えるのは、それを彼がじぶんじしんのちからで悟る前に、他者からつきつけられていったからだとおもわれる。ボリョージャは兄だし、カーチェンカは年齢はわからないが、一般論的にいって女の子というのは同世代の男の子より精神年齢が高いものである。彼らは、年長であるぶん、ひとりで勝手に、さっさと大人になる。微妙にまだその段階ではないニコーレニカは、それでも、彼らが大人になっていくことをつきつけられて、成長を強いられる。おそらくこういうからくりかとおもわれる。なにもかも、母親の死からはじまったのだ。ナターリア・サービシナは、おそらく『少年時代』の段階では存命なのだが、引越してしまったからもうあえないし、幼いころから面倒をみてきた家庭教師のカルル・イワーヌイチは、彼が子供たちに火薬(パパのはなしでは別に危なくないそうである)を与えて遊ばせていたことが祖母に知られてクビにされてしまう。ボリョージャやカーチェンカはそれぞれに(おそらくはママの死を契機に)かってに大人になって離れていく。こうしたことが、まだ準備も整わないニコーレニカのもとにいっせいに襲い掛かってきたわけである。

 

 

カルル・イワーヌイチの後釜は、すでになんらかの授業を受け持っていたらしい通いの教師、サン・ジェロームとなった。ニコーレニカは、彼の少年時代をトラウマ的なものにした元凶のようなものとしてこの男を嫌っている。ここまでひとを嫌いになるというのも、彼の人生でははじめてのことだったろう。じっさいには、サン・ジェロームがニコーレニカに加える罰は、公平にみてそう厳しすぎるということもなく、まあまあよく仕事をやっているといえるとおもうのだが(げんにボリョージャは非常に優秀な成績で大学に受かっている)、子供の認識というのはそうではない。この、公平さ、つまり客観性を欠きながら、ひとを嫌いになるという環境への不満の同居は、少年時代ならではであるとおもわれる。たしかにサン・ジェロームは高慢で嫌なやつかもしれないが、彼がニコーレニカにこだわるのは、ニコーレニカが「やってはいけないこと」をやるからである。あるいは、成績が悪いことにかんして少しの反省もせず、努力もしないからである。しかし、その回路が、彼にはまだ見えない。あるいは意図的に無視している。だから、ただ嫌であるという感情だけが前景化されることになる。幼年時代ではそもそもそういう嫌なあつかいを受けることがなかったし、あったとしても、それはたんなる苦痛やルーティンのようなものとして受け取られ、涙で解消されたのであり、なぜ“とりわけ”じぶんだけがこんなあつかいを受けるのか、という、第三者風の目線を内在した不満は出てこなかったのである。“とりわけ”というところに、彼がサン・ジェロームを嫌う理由がある。この目線じたいは、外部的な意識の欠かせないものだ。ところが、そこまで到達しながら、ニコーレニカはその回路、じぶんが悪いことをしたから罰せられる、という理屈を受け容れようとはしない、というかほとんど気づかない。まさしくここに彼のもがきの原因があらわれている。なぜなら、ボリョージャやカーチェンカとは異なり、彼はじぶんからこの成長を望んだわけではなかったからである。外部的であり、その目線を備えつつも、幼年時代との環境の差異に戸惑っている、そういう、誰もが覚えのあるであろう感情なのである。たぶんボリョージャやなんかにもそういう葛藤はあったはずだが、彼らはじぶんでそれを望んでいるぶん、なかなか見えないのである。

 

 

サン・ジェロームが入るにあたってクビになったカルル・イワーヌイチだが、彼が家を去る前に、不可解なほどの紙数を使って、彼の生い立ちが、彼自身のくちによって語られる。気の毒なカルル・イワーヌイチ、苦労が報われたかと思いきや放り出されるカルル・イワーヌイチ、彼の人生を通して、ニコーレニカにはある種の準備が整ったはずである。世界とは、こちらの事情を考慮してはくれず、不幸なひとにも容赦なく次の不幸を与えていくものだと。カルル・イワーヌイチは母語がドイツ語らしいのだが、会話のなかでときどきドイツ語をはさんでくるのは、『幼年時代』でもそうだったのだが、翻訳ではここが傍点つきのちょっとカタコトな言葉遣いになる。これが翻訳上どういうことなのかわからないのだが、このことが、彼を同情すべきあわれなものと見せると同時に、なにかこう、すでに通過してしまった、過ぎ去ったものと見せているようにも感じられる。感情としては次の比喩がいちばん近いかもしれない。つまり、“父親に腕相撲で勝ってしまったときのような”感覚である。ニコーレニカにとってカルル・イワーヌイチは幼年時代を象徴する象徴のようなあたたかな存在である。しかし、それはもう通過した場所なのだということを、安定しない彼の言葉遣いを通してニコーレニカが感じているようにおもわれるのである。

 

 

 

今回も翻訳は藤沼貴というひとのもので、ひとことでいってすばらしい。解説もトルストイ研究者としてじつに読み応えがある。解説というにはディープすごいるくらいだ。そこでは、トルストイが一種の「歴史家」としてとらえられる。多くの成功者が自伝を書くのとは異なり、むしろ失敗者として振り返り、そこにいまに至り、またこれからに進んでいくための原理を見出そうとするのである。これらの小説はどれも厳密には自伝ではない。たとえば、トルストイの母親はもっと早い段階で亡くなっていたのだった。こうしたことは、彼が小説の枠組みのなかでみずからの過去をとらえなおし、当時の主観のみにたよるのではない視点を獲得しようとしたと考えることはできるだろう。だが、藤沼貴によれば、『少年時代』それじたいは優れた小説であっても、こうした歴史家的観点からすると、成功しているとはいえないという。幼年時代の調和は見事に描かれたが、少年時代でそれはいったん崩れ去る。歴史家は、そこに必然性を見出さなければならない、しかしそれができなかったと。

いままで書いたような、カーチェンカやカルル・イワーヌイチの問題は、いってみれば細部である。当時のことをいったんフクショナイズして、要素として取り入れつつも、ひとつの枠組みのなかでとらえようとする内、歴史家としてのトルストイは、個々の出来事についていろいろ考え抜いてみたはずである。しかし、そこを通る一貫性のようなもの、幼年時代から受け取り、青年時代につながるような必然性を見出すことはできなかったと、こういうことだ。この必然性にかんしては、宗教的なものを見たほうがいいかもしれない。いままで書いてきたように、その場その場のことについて、原因はこうだとかああだとかいうことはできる。しかしここでいっているのはそういうことではなく、生を作為的な物語のようなものとしてとらえたとき、その掉尾は、神のもとに回収されるわけである。キリスト教的な思考法では、道徳的ふるまいの報いは、神の世界、要するに死んだあとやってくる。だから、宗教的思考法が流れている物語では、結論は生のなかにおさまらない可能性がある。なにか不幸な時代があったり、献身が報われない時代があったりしても、キリスト教的思考法は別次元である神の世界によってそれを解釈する。その一本の流れを示す矢印が、おそらくここでいわれている必然性だろうと考えられる。だが、必然性というのは、ある意味では「もののいいよう」ということもある。それが現世的な論理の内側であったとしても、宗教的な回収という意味であったとしてもである。それでありながら天才トルストイがああでもないこうでもないと物語をこねくりまわしてどこにも至らなかったとすれば、もしかするとそもそもこの20代の時点では宗教的な葛藤があったのかもしれない。それとも、そもそも、幼年と少年がまざりあうこの無秩序の時代だけは、どのような論理もそこにあてがうことはできないということだろうか。それはたぶん誰もが理解できることだ。ふたつのまったく異なる論理が同居し、葛藤するのが少年時代なのだ。