らーめん滑皮さん | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

闇金ウシジマくん外伝、『らーめん滑皮さん』さんがやわらかスピリッツで連載中です。

 

 

 

第1話↓

http://yawaspi.com/namerikawa/comic/001_001.html

 

第2話↓

http://yawaspi.com/namerikawa/comic/002_001.html

 

 

 

 

グルメ系の漫画は最近になってたくさん出始めてきてるが、それは、やはり鉄板とはいえないまでも堅実に売れるぶぶんがあるからだろう。とりわけカイジのハンチョウのやつとか、あとクレヨンしんちゃんのパパ、野原ひろしの『昼メシの流儀』みたいな、既存のキャラのそういう面が開拓されていっている傾向がある。変則的なところでは、スピリッツ読者にはヴィルトゥスでなじみがあるとおもわれる信濃川日出雄が『山と食欲と私』でヒットを出し、また『名探偵キドリ』というじつにくだらなくすばらしいギャグ漫画の作者だった馬田イスケは『紺田照の合法レシピ』で名を売り、なんというか、明らかに才能があるのにいまいち目が出ない作家たちがメジャー作家の仲間入りをするきっかけみたいになっているところもある。

そうしたわけで、グルメというかお料理というか、そういう漫画じたいには比較的好感をもっているとおもうのだけど、ウシジマくんでそういうスピンオフがでると聞いて構えてしまったことも事実である。ついにウシジマくんもそういうあつかいになってきたのか・・・みたいな。しかも滑皮って、あの、がちゃがちゃごはん食べる滑皮ですよね?・・・

 

というふうに感じたことはまちがいないが、ここに戌亥をからめてくることで、ちょっと予想と異なる方向性できている。というのは、なんかこう、滑皮がグルメするときいて、なぜか僕は井之頭五郎スタイルを想像したのである。つまり、らーめんを食べて、その感想をあたまに思い浮かべて、感嘆の声をあげてしまうのである。荒々しい仕事を片付けたあとぎとぎとのらーめんが食べたくなって立ち寄る、みたいなはじまりかたで、ちょいちょい店内で揉め事なんかもあったりする、そういう内容かと。でも、滑皮がじっさいなにを考えているかなんて、ちょっと見たくないような気がしてしまったのである。しかしどうやら滑皮は本作でも語られる対象である。これは丑嶋と変わらない。もちろんときには彼らのどちらも、こころになにかをおもってそれが描かれることもあるが、基本的には遠い他者である。これをしっかり継いで、それでいて外伝にするために、語り手ポジションに戌亥をおいたわけである。タイミング的にもちょうど回想が終わって、その終盤でふたりの関係が明らかになったところだ。これまでは、戌亥がどういうスタンスで滑皮にしたがっているのか想像するしかなかったが、とりあえず表面上は利によってこの関係が成立しているということが描かれたのである。あの描写がないと、読者はこの作品をどういうつもりで読めばよいのかわからずひどく不安に感じてしまうだろう。

 

現代の読者は、ストーリーを築く骨太の縦のラインに加えて、キャラ萌えと呼んでいいのか、その人物の、描かれていないところまでも好ましくとらえて解釈する、いわば横のラインを読み込む技術に長けている。それは腐女子のひとたちを見ていればわかる。ラッパーたちがじぶんの生きざまをかけてスキルを競い合うMCバトルを流行らせたのはフリースタイルダンジョンという番組だが、初代モンスターにおいては、たとえば漢のようなこわもての大男が、ちょうどウシジマくんのフォントのような独特の雰囲気で新宿を散歩してみせたり、同じくモンスターではあるけれどMCとしてはやや傾向の異なる面々がそれぞれをリスペクトしあい、また支えている様子がたいへんに受けたというぶぶんはあるとおもう。これも一種のキャラ萌えととらえていいだろう。当初、審査員のERONEなどはこの、じぶんたちと視聴者の、バトルをみるときの温度差に驚いていたが、これは要するに、熟練のMCはバトルひとつにもそこにつらなるさまざまな背景や、それを築くスキルを見出していくのだが、番組からはじめてヒップホップに触れた視聴者は、まず毎週見ることになるモンスターたちに自己を投影するのである。要は、彼らにじぶんたちと似ているところ、感情移入できるところを探すのだ。これはバトルのレベルとか、ヒップホップ文化とかとはまったく無関係なところから出てきた見方であって、かんぜんにひとごととして見ることのできるテレビ視聴という特権的立場から導かれてきたものだろう。僕としては、なによりあれらの優れたミュージシャンたちが、ラップだけでは食べていけずアルバイトしているような状況じたいが信じられないというか、そんなことがあってはならないという気持ちだったから、個人的にはそれでもかまわない、とにかく(逸脱しすぎない範囲で)番組が続いて、ラップがあたりまえになってくれればそれでいい、という気持ちだったが、もともと「ラップがあたりまえ」だったひとたちからすれば、こうした反応はびっくりだったのだとおもう(したたかな漢はなにもかもわかったうえでやっていそうだけど)。

はなしが逸れたが、既存のキャラのスピンオフが隆盛をきわめているのは、そうした二次創作的読み方が決して特殊ではなくなってきて、技術的にも一定の水準に至るようになってきたからだと考えられる。スピンオフじたいはむかしからあったとおもうけど、数はずっと少なかった。僕じしん、あのキャラのはなしをもっと読みたい、とおもうようなことはあったはずだけど、まず描かれなかった。それがいまでは、うまるちゃんの作者じしんが、同作の人気キャラであるえびなちゃんの漫画を描いちゃう時代である。個人的には、最初に書いたように、この横のラインが豊かになっていったことには、ある物語を、その物語が本質的に要求しているコードではないもので読むやおい的ありようが、この読み方を開拓していったと感じている。たとえば、高校のバスケ部のはなしでは、少年ジャンプなら部員どうしの友情と、血のにじむ努力と、それが勝利に結びつくカタルシスを描くのであり、それが物語となる。しかし、そうでない読み方も可能であることを発見したのがやおいなのである。やおいの読みじたいは普遍的なものではない。重要なことは、選択肢があるという経験が示されたことなのだ。

 

まあこのはなしは直観的なものをでないので(ふつうの文芸批評の変容なんかも踏まえていない)、聞き流してもらうとして、ファンタジー的な要素をもともともっていた肉蝮が、肉蝮伝説でファンタジーに突っ走っていったのとは逆に、滑皮さんは表現のぶぶんでもかなり原作に寄せてきている。それでいて、いままで見えなかったところが見えている感じだ。本編は構成的につねに高い緊張感のなか展開していて、読者サービスをしようにもなかなかはさみこめないぶぶんがあるが、本作はこれをカバーしてくれるかも。