今週の刃牙道/第184話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第184話/絶技

 

 

 

 

 

 

 

 

なによりちゃんとはじまってびっくりな武蔵とバキの決戦である。それもこれも、彼らのたたかいかたが日常と大差ないところにあることが理由である。今回はこうして試合会場と時間が決められてはじまっているが、原則的にはそういうデジタルな区切りはないのであり、多くのひとがそうであるように、試合が非日常ではないのだ。だから、特に区切りもなく、きっかけもなく、ふわっとはじまる。

その流れで、バキ以外にもみんなやることだけど、話しながら蹴りをかますバキだったが、これは武蔵にかんたんに見切られてイメージ刀で足を斬られる。つづけて武蔵も蹴りを出し、彼がいまだ成長し続けていることが示された。

ここまではまあ遊びみたいなもので、武蔵は勇次郎戦を想起しつつ、あのときにもみせた元祖脱力ダッシュでバキに突撃する。しかしバキのゴキブリダッシュはこれを上回る。まだ武蔵がほとんど前にでないうちに距離をつめ、素早いジャブを3発も決めてしまうのだった。

 

 

で、このジャブだが、先週はどうだったか気づかなかったが、音が「パンッ」という破裂音ひとつしかない。武蔵の眉間が割れて血が出ているのもあり、観客もどうやら顔面へのジャブ1発でバキが倒したとみているようである。

むろん、わかるものにはわかる。克巳、独歩、郭、渋川はわかったようだ。寂は超人って感じじゃないし、オリバとジャックは筋肉馬鹿だから見えなくても不思議はない。遠くから見ている本部とガイアにも見えたことだろう。

ここでボブ・マンデンというガンマンが紹介される。ガンマンというから西部開拓時代のひとかとおもったら、ずいぶん最近のひとだ(亡くなったのが2012年)。職業は銃整備士ということである。2メートルはなしたふたつの風船を、0.02秒で両方撃ち抜く。あまりにも速いので、音がひとつに聞こえるというのである。ほんまかいな~となって調べたら動画があって、ほんまだった。スローでたしかに弾が2回発射されているのがわかるくらいで、ふつうにみたら、1発でふたつ落としているようにしか見えない。見えないし聞こえないのである。

で、ここからがバキらしい。早撃ちのときにもち手にかかる重力は10G、これは戦闘機パイロットの限界に相当するという。これに耐えるのが、カードの束を引き裂く握力とピンチ力だというはなしだ。調べたけど、ボブ・マンデンの握力にかんしては特に出てこなかった。

 

 

バキのジャブは武蔵の眉間と水月と金的をしたたかに打った。ゴキブリダッシュは武蔵のダッシュを超え、ジャブの初弾(3発のうちいちばん最初ということだろうか)は見事な手首の返しにより武蔵の眉間を抉った。以上三種の現代格闘技術を同時多発駆使した、見事な一挙動だったわけである。とりわけ先端操作にかんしては専門家である鎬昂昇も驚いている。兄の紅葉は速過ぎてバキが消えているように見えたことに驚いている。紅葉レベルでも見えないのかよ。すげえな。

 

 

武蔵はたいへんなダメージを受けている。まさかあんな速さの攻撃がいきなり降りかかってくるなんて想像もしてなかっただろう。特に金的が効いたようだ。息もたえだえ、股間をおさえながら、いつもの「倒れているあいだに幾度か仕留められた」云々の減らず口である。バキは、そんな冒険はしないという。たしかに、この状態でも武蔵は攻撃をしてくる。烈も本部もそれで一杯くわされた。仕留めるなら動きながらがいいと、バキは意味深なことを考えている。

金的だが、真下からすくうように打たれたわけではない。正面なので、睾丸じたいへのダメージはけっこう小さいはずである。金的の正面から前蹴りなどをもらってしまうことはけっこうよくある。試合ではアピールしていくが(審判が採ってくれれば相手の減点になる)、じっさいは特に痛みがないので、ふだんの稽古などではスルーすることもある。ただ、バキのばあいはジャブで、重さじたいはたいしてなかったぶん、よく響いたのかもしれない。打ち込むというより弾いた感じなのだ。

武蔵は勇次郎に金的の痛みをいやというほど叩き込まれた。下から打たれていたら終わっていたと認める。

バキはあいだをあけず、まだ弱っている武蔵に左ハイを解き放つ。ちょうど頁のあいだに描かれていてよくわからないのだが、バキの軸足、膝裏あたりを足で払った感じだろうか。武蔵はこれに対応してみせたのである。踏み込むバキの背景にはまた師匠の絵があるので、これもゴキブリダッシュと同じ仕組みで発動した速い攻撃だ。しかし武蔵はこれにあっさり慣れたようである。見えたのである。まだ股間をもみもみしていて、うずきはあるようだが、たたかいは次の段階にすすむのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

バキも相手の技を覚えてその場でつかっちゃう天才だけど、武蔵もそうなのかもしれないなあ。さすがにハイキックは、そのために時間をかけて磨いた技術が必要なので(股関節のやわらかさだとか足の甲や脛の強化だとか)コピーもなにもないだろうけど、概念じたいはすぐに学んでしまうのだ。

バキのあのスピードを見切るためには、もちろん優れた視力も必要だとおもうけど、まず理屈を理解する必要があるかもしれない。その意味では、やはり経験がものをいう。武蔵じしんが脱力を駆使していて、だからこそバキが脱力を駆使していることに気がついた、ということもあるとはおもうけど、そういうことの前に、なにかこう、ある出来事を過去じぶんが体験したなにかに「似ている」と感じて理解する「年の功」みたいなものが必要なかんじがする。

で、根拠はないが、そのうえで、武蔵は、バキがゴキブリを師匠にしていることを見抜きそうにおもう。ゴキブリは、バキが対勇次郎に合わせて師匠としたもので、全世界そのものといっていいような勇次郎がとりこぼしていそうなもの(それでいて優れているもの)として、バキは着目した。彼にその意図があったわけではないとおもうが、それは正しかった。勇次郎を相手にするとなると、全知全能の彼にいかにして未知をつきつけるかが肝だったわけだが、たとえばそれは虎王という、別の漫画、別次元からの技術というかたちをとった。虎王に似た技がかつてバキ内で使われていたことはあまり重要ではない。重要なことは、あれが、藤巻が長田に、泉が丹波に授けた「虎王」そのものだということである。だから、この技はバキ世界にある限りつねに未知性を宿すことになり、それは見事に勇次郎に決まったのである。

たいがいの技は知っている、あるいはコピーしてしまう勇次郎が、ゴキブリダッシュだけは、元ネタを見抜くことができなかった。「全世界」からすると、ゴキブリというのは些細な存在であり、巨象にとっての雑草みたいなものだ。目を配る必要性がない。逆に言うとそういうところから優れたものを拾ってこないと、バキは勇次郎にとても歯が立たなかったのである。

しかし、おもえばこのバキのスタイルは武蔵のものである。「我以外皆我師也」というやつだ。調べてみるとこれはどうやら吉川英治の創作のようで、となると、吉川武蔵に対抗しているふしがある板垣武蔵はこれを踏まえないかもしれない。が、ここのところの武蔵の学び具合をみると、これは考えられないことではない。武蔵だけは、ゴキブリからも学ぶというバキの姿勢を理解できるだろうし、だからこそ見抜きそうだとおもえるのだ。

 

 

この心変わりはやはりピクルとの件が影響しているだろう。別にかつての武蔵に学ぶつもりがまったくなかったということではないのだが、それでも、蹴りを笑い飛ばしていた武蔵からいまの(多少戯れ気味であったとはいえ)蹴りを放つ武蔵は考えられないわけである。彼はずっと、現世で「あの宮本武蔵」であった。顔を合わせる誰もが、信じるも信じないも、彼を伝説の「宮本武蔵」としてあつかい、彼自身、その立ち位置を主張するぶぶんもあった。しかし、「あの宮本武蔵」とはそもそもなんだろう。彼は最強という概念をつくった、無双のサムライである。だが、現代でそれがなにを意味するか。ピアノの魔人だった「あのフランツ・リスト」をよみがえらせて、彼は果たして現代のデジタルな音楽作成の現場でなにかをなすことができるだろうか。そのスタジオで、フランツ・リストであることがなにか音楽的効果を発揮するのだろうか。おもえば学ぶためには社会的な位置を知る必要がある。よくいわれることだが、重要なことはじぶんがなにを知っているか、なにをできるかではなく、なにを知らず、またなにができないかということだ。そういう場所でしか学びは発動しない。周囲のものがかつて同様「あの宮本武蔵」とあつかい、そして事実まったく歯が立たない、こういう状況で、彼が学ぶはずもなかったのである。

だが、じっさいには、格闘技術は進化している。武蔵には通用しなくても、優れた技術はいくつもある。武蔵がもっていないものは、まだまだたくさんあるのだ。それを知るためには、じしんを相対化しなければならない。つまり他者が必要なのだ。武蔵は、警察機構とそれを外側から縁取るアウトロー(花山)を倒すことで、そのありようを現世の秩序に否定されることはなくなった。しかしそれは存在の権利を獲得しただけのことだ。誰も「いちゃいけない」といわなくなった、いえなくなっただけのことなのである(バキを除いて)。その先に、武蔵が存在の権利を行使する必要が出てくるが、その相手がピクルだった。ピクルは武蔵が唯一「斬り放題」とした人物である。たとえばバキにとって、花山とかオリバみたいな人物は「殴り放題」である。ところが武蔵では、攻撃方法が剣の斬撃であるために、「斬り放題」がなかなか成立しない。この「~放題」というのが、現代のありかたの枠組みである。武蔵が現代で、バキたちと同じようなファイターとして存在しようとしたら、「斬り放題」の相手が必要になる。そこにあらわれたのがピクルだった。ピクルは、武蔵が唯一、バキが花山と対するように向かい合うことのできる男なのである。

そうして、武蔵は「社会人」となり、現世で他者を獲得した。「あの宮本武蔵」という、雲の上の存在であることをやめることができたのだ。これが彼の学びと無関係とは思えないわけである。ピクルを経由することで、武蔵はただの宮本武蔵になることができる。その目線に、はじめて外部が入ってくる。じぶんがなにを知らないか、なににかんして遅れているか、検証できるようになったのだ。

 

 

このような謙虚な姿勢に学びの貪欲さが加わるわけだから、武蔵はこれからどんどん強くなる。バキがじしんのイメージから懐石料理を片付けたのは得策だった。あれらのごちそうはすべてバキのなかに宿っている、「全世界」に対応するために身につけた技術である。それを、おそらくバキは、ただ道具として駆使するのではなく、じぶんのものとした。バキはいままで流儀をもたなかったが、それは、「なにものか」であることは、勇次郎にとっては超越可能を意味したからである。中国拳法の権化である郭は、いってみれば「なにものか」であることを極めた人物である。しかし、それをも、勇次郎は既知で覆う。勇次郎に勝つためには、徹底して「なにものでもないもの」を極めるほかないのだった。だがそれも済んだことだ。バキはこれらを吸収し、ついに「なにものか」、要するに「範馬刃牙」になりつつある。おそらくこれがタイトル「刃牙道」の意味である。彼を構成していた無数の他者は、すべてバキ固有の要素として翻訳されつつあるのだ。

しかし、もしかするとこれは、別に武蔵対策にそうしたということではないのかもしれない。たんに自然の流れ、もう「なにものでもないもの」でいる必要はないのだから、身につけてしまえと身体が要求した結果でもあるのかもしれない。げんに武蔵は、バキが取り込んだはずの貴重な技術をあっさり見切ってしまう。料理が出ないのだから、武蔵としてはそれを取り込んだバキじしんを取り込むほかないのであり、それは武蔵からすれば同じことである。バキのことだからまだ引き出しはあるとおもうが、それがどのような場所から学んだものであれ、たぶん武蔵は見切り、下手するとその過程まで見抜いてしまうだろう。そう考えると、技術では武蔵に勝つことはできないのではないかという気が・・・。