『ミクロ経済学入門の入門』坂井豊貴 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ミクロ経済学入門の入門』坂井豊貴 岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミクロ経済学はシンプルで前提知識を要しない、非常に学びやすい学問だ。無差別曲線や限界費用などの基本から、標準的な均衡理論、ITサービスの理解に欠かせないネットワーク外部性まで。数式は使わず、コンパクトな図で説明する軽快な「入門の入門」。これからミクロを学び始める人、ミクロが分からなくて困っている人に最適の一冊」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

多数決を疑う』『社会的選択理論への招待』の坂井豊貴の新著だ。問題意識としてなんとなく人文系というか、法哲学とかそっちのひとっぽい印象があったのだけど、冷静に考えると『社会的選択理論への招待』なんかはほとんど数学的証明だったし、プロフィールをみると完全に経済学の畑のひとなのだった。

経済学というのも僕にとってはまた苦手意識のある分野で・・・。僕のフォローしている範囲か、あるいは利用者それじたいにそういう傾向でもあるのか、ツイッターをみていると政治や経済にかんして一家言ありますという顔つきのひとたちが大勢いて、感心してしまうと同時にうんざりもしてしまうぶぶんがあって、そういうひとたちっていうのはたぶんほぼ経済学かそのあたりの出身なんじゃないかと、本書でいくつか用語を学んでみてわかった。という書き方をするとツイッターを通してそういう苦手意識がつくられたかのようだが、そういうわけではなくて、むかしからそういうはなしが出てくると耳をふさいでしまうところはたしかにあった。直近の、目の前にある問題を解決するような技術に欠けているということなのか、よくいえば資質的な問題ということになるか、僕のばあいは、いまこの瞬間に人間の社会で機能しているシステムの分析より、そういうシステムがどうしてできあがったか、どうやってできあがったのか、ということのほうに関心があるうえ、じっさいどちらかといえばそちらの分析に向いているようにおもえるのである。なぜこんなことになったのか、しばらく考えてみたが、どうも小学生のときの中学受験が原因のような気がする。当初は算数・国語・理科・社会の四科目受験をするつもりだったのだが、どうしても理科と社会がダメだった。暗記ということがぜんぜんできないのである。そのいっぽうで算数はまったく問題がなく、国語も、読書を教えてくれた先生のおかげでめきめき実力をつけていった。そういうわけで、僕は途中から2科目受験に切り替えたのだが、あのときから、じぶんはそういう、仕組みや用語を覚えていく作業に向いていないのだ、というふうに、たしかにその傾向があったのはまちがいないとしても、思いこんでより強化するようになっていったんではないかと考えられるのである。なんでもすぐ忘れてしまうのはたしかにそうなのだが、じぶんのなかになにかトリガーがあって、たとえば楽譜はすぐ覚えられる。ピアノを貸してくれたある教室の先生が驚愕する程度にはあたまに入っている。しかしそのトリガーは、おもうままに引くことができないのである。

 

 

ミクロ経済学、マクロ経済学ということばは聞いたことがあって、ちょっと学んでみようかと、本屋でぱらぱらめくってみたことさえある。しかし学んでいないということは、その時点で挫折したということである。ちょっとひがみっぽい口調になるのは避けられないが、ツイッターで経済学的視点から語られているものと、僕のような人間が書いているものは、きっと交差することがない。どう考えてもこの分野にも、その他の学術と同様に、向いているひとと向いていないひとがいる。しかし、いまこの瞬間に差し迫った出来事の分析が仕事であるぶん、その口調は非常に強く、排他的で教養主義的なものである。そういうものを前に、仮説に仮説を重ねる可能性追究スタイルの僕みたいなものはどうしても萎縮してしまう。しかしそれはちょっと悔しい。こういうような不純な動機で、経済学の本を読んでみようと、おそらくなったとおもうのだけど、けっきょくダメだった。そういう、厳密ではない意味でトラウマ的な感傷が経済学に対してはあるのである。いや、いま厳密ではないといったが、じっさいのところ、これはトラウマそのものではないだろうか。トラウマとはわたし自身には想起できないものであり、わたしたちの思考はトラウマのぶぶんを回避するようにして出来上がっていく。ドーナツの穴がトラウマのぶぶんであり、そこを語り落としながら、ドーナツそれじたいにあたる「わたし自身」は構築される。僕は、文章を書くとき、つまりものを考えるとき、経済学、あるいは経済学的なものを回避しようと努めていないだろうか。フロイトほどピンとくるものがあったわけでもないのに、経済学に至る道程を開拓したようなマルクスにやたらとこだわるのも、そうした無意識の裏返し、抑圧されたもののあらわれなのではないだろうか。

 

 

 

数学的証明のぶぶんはともかくとして、坂井先生はすばらしい書き手でもある。新作というだけでちょっと読んでみようかなとなる程度には、現時点で影響を受けているのだが、それがこんなタイトルだったものだから、なかなかうれしかった。じっさい、本書は僕でもじゅうぶん理解できた。そして、経済学はやはりかなりおもしろい。それは認めざるを得ない(何様かという感じだが)。まえがきにも書かれているけど、経済学を学ぼうとしたらまず基礎にこのミクロ経済学がくる。消費者がどういう理屈でどういう行動を選択するのか分析することで、会社や市場のありかたが浮かび上がってくるのであり、おそらくそのさきにマクロ経済学がくる。消費者、つまりわたしたち人間の身体的な欲望や求めに応えるしかたでミクロ経済学は誕生し、経済学がそこに立脚しているのだとすれば、ミクロ経済学に前提知識はいらない。計算や図表でつまずくことさえなければ、その後の経済学の理解もずいぶんスムーズになるはずである。本書はこういう動機でつくられている。だから、ひょっとするとだけど、専門家がみたら「おいおいそこ端折っちゃうのかよ」とか「こんなふうに書いたらアレとかコレが誤解されちゃうんじゃ・・・」とか、そういう感想を抱えるのかもしれない。それは、僕は専門家ではないのでわからない。しかし、彼らがいったい学問としてなにを行っているのか、そのアウトラインみたいなものは見えてきたし、用語もいくつかつかめたうえに、なにしろそれがスリリングでおもしろいということがわかったのである。なにしろ150ページくらいの、1日か2日で読めてしまうような薄さでもあることだし、新書というジャンルもこみで、本書はこの規模においてじゅうぶん役目を果たしているとおもう。

 

 

身体的実感にともなう、消費者周辺の事物からスタートし、記すにあたってそのことを強く意識して、非常に身近な例をとってはなしがはじまっていくという構成もあって、理解もたやすい。ビールが発泡酒を呼び、そのあとに第三のビールがあらわれた事情、機能の優劣に関わらず、ある種のネットワークサービスが先にナッシュ均衡を獲得したという点だけで後続を圧倒するという構造など、「あれはこういうことだったのか」的なカタルシスもある。ただ、当然のことながら、最初から順番に理解していかないと、後半はつまずくことになる。ある用語を理解するにあたって、その説明にかんしては、身体的実感にしたがうレベルで満足できても、それをしっかり内面化しないと、その用語は次の項目で当たり前につかわれているので、パニックになる。そのあたりもかなり親切に設計されているとはおもうが、ちょっとだけ高校時代のことを思い出したりもした。僕は授業をサボってばかりいた生徒だったので、しばらくぶりに顔を出すと、何段階もはなしが先に進んでおり、得意にしていた科目でさえ周囲に追い抜かれていて、いやになる、という悪循環をみずから呼び込んでいたのである。ああ、学問ってこうだったよなと、当たり前なんだけど、しんみりと感じ入ることになり、ひそかに当時のじぶんを責めるのであった。