第159話/闇
内海警視総監の依頼と烈海王の死の報せをうけて花山薫が動き出す。武蔵はちょうど花山の縄張りである歌舞伎町をうろうろしていた。警察も強力するなか、衆人環視のなかたたかいが始まろうとしている。
メガネをはずし、腕をあげて羽織っていた上着を滑らせて脱ぐ。ふんどしに加えて、刀ありの戦闘ということで様式的にさらしも巻かれているが、侠客立ちはだいたい見えている。2メートル近いどう見てもヤクザ以上のナニカである花山と、刀を二本さした武蔵が対峙しているのである。花山の入れ墨に対してか、感嘆の声をもらすものもいるが、それはどうやら若い男性ばかりのようで、サラリーマン風のふつうの社会人は「ケイサツは・・・!?」などといっている。とおもったら、ふつうに現場にいる。この前道案内にあらわれたのは二人だったが、いまは4人いる。闘いの最中、一般人の安全を図ったりして、サポートするつもりなのかもしれないが、いや、ケイサツが見てたらダメでしょ。この花山の行動は、警察からの依頼によるものではない。そんなことがあってはならない、つまり警察がヤクザになにかを頼むようなことがあってはならないから、花山は内海の土下座を制止したのだ。ごくたんじゅんにいえば、制度の秩序を保つのが警察機構で、その「正しさ」が規定するものの外部に属するのが反社会的勢力であるヤクザである。秩序がまったくない空間に彼らは存在することができない。それはただの一般人となにもちがわない。だから、まず警察があり、しかるのちに、反社会的勢力は立ち上がる。酒の密売で大もうけするアル・カポネは、禁酒法があってはじめて自律するのだ。だから、花山は、内海の依頼を、ヤクザとしてではなく義に属するものとして受け取った。だから、このやりとりにおいては、警察官である内海からの依頼は断られ、それどころか依頼することじたいが制限されているのであり、花山はただ内海に同情し、憤るものとして武蔵の前に立つのである。そういう、花山の配慮というか原理主義が、警察が黙ってみている、ばかりかじゃっかん協力してしまうのでは、無効になってしまう。武蔵なんかは刀差してるわけだし、立っているだけで犯罪だ。それとヤクザが喧嘩するのを見届けてしまっては、そもそも、彼らがずいぶん前から心配していた「知られてはならない」いまの警察の状態を自らさらしてしまうことになる。ひょっとするとこれは、花山が義で応じたように、警察としても人間的なものに突き動かされた結果なのかもしれない。指示としてはなにも出ていないか、以上考えたように、なにもすべきではないとされているはずである。「内海の依頼」は存在してはならないのだし、そのもともとの原因である「武蔵を制圧できないという事実」も知られてはならないからだ。でもこうなるのは、もっと細部の次元で、じぶんたちもなにかしなくてはというような余計な衝動が出ているからなのかもしれない。
花山を見るなりなにか新鮮なものでも受け取ったのか、武蔵は不気味な笑みを浮かべていたが、服を脱いだところでまた笑う。いい貌だと。たほうの花山は、無表情のまま奇妙なものを感じているようだ。侍の背後が、全面暗闇なのである。上を見ても下を見ても、底なしの高さ、底なしの低さ、そして底なしの奥行きの闇が広がっている。それでいて、すすめばからだがぶつかるような、ごくせまい空間があるだけのようにもおもわれる。広いのか狭いのかすらわからない漆黒なのである。豪剣か毒針か爆薬か、なにが出てくるのかまったくわからないのだ。
しかし花山にはかんけいのないことかもしれない。草履も抜いた花山があの構えをとる。足を大きく開き、握った拳をふたつ掲げる殴りますよスタイルだ。相手の反撃を考慮せず、攻撃にすべてのちからを集中させた花山らしいかまえである。一撃で致命傷になる達人の刀相手にもそのスタイルでいくべきなのかはわからないが、とりあえずこれが標準的な花山のやりかたなのだ。だから、なにが出てくるかはどうでもいい。そこからからだをねじり、砲丸投げなどの投擲をおもわせるフォームで拳を溜める。花山はなんのためらいもなく、闇へと踏み入るのだった。
つづく。
花山の構えを見てさすがに武蔵もきょとんとしている。まさかそのまま殴るわけじゃないだろうなと、克己なんかも最初は考えていた。こそこそせず、当然のことをしているような真顔で犯罪行為をすると逆に気づかれにくい、などということがある。花山のねじりが投擲のフォームに似ているのは、拳を放る動作にすべてを集中させるのが、ものを投げて遠くに飛ばすことにすべてを集中させるのと似ているからだ。しかし闘争においてはその他もろもろに注意を払わなければならない。投擲の最中、突然ライバルが脇をくすぐってきたり、おばあさんが道を聞きに接近してきたりすることはない。だが闘争では、相手がどういう行動にでるかわからないぶん、余力を残し、すぐ対応できるようでなければならない。そういう常識があるから、わたしたちにおいては攻撃に振り切ったしぐさを見てもそれがすぐ攻撃につながっていかない。ある意味では戦術的に有効なのであり、だからみんな戸惑っているうちにけっこうこれをもらってしまうのである。武蔵に対してはどうだろうか。武蔵も現世にきてからけっこうな素手の技術を見てきてはいる。しかし、あまり一点に意識を集中しすぎないというのは、素手だろうと刀だろうとそうちがわないだろう。精神的な鍛えがやはりちがうだろうから、克己みたいに当惑することはなくとも、「なにしてんだコイツ」くらいの感じかもしれない。だとしたら武蔵も最初の一撃は喰らってしまうかも。
もし武蔵が、この構えについての花山の意図が正確に読めたら、回避も可能かもしれない。ここでいう意図とは、ひとつには圧倒的な握力に支えられた拳のかたさと、侠客立ちが物語として支える負い目なしスタイルである。これまで考えてきたところだと、花山は相手の攻撃を受けきり、いっさい負い目のない状態になったところで、攻撃の純度を高めることになる。ここでいう負い目とは、実は花山薫そのもののことである。勇次郎同様、花山も強者として生まれてきたものだ。もちろん勇次郎と比較したら劣るのだけど、なんの鍛錬もなしにあの握力と破壊力なのであるから、生まれつきの強者ということでまちがいない。だから、通常、ふつうの格闘技者と対するとき、彼らはスタート地点が異なっている。最大トーナメントでいえば、天才・愚地克己であってさえ、長い蓄積を経て、花山を倒すほどのマッハ突きを獲得しているわけだし、そもそもその出場権みたいなものも、後天的なもののわけである。しかし、花山のばあいは、いってみれば生まれたときから最大トーナメント出場は決定していたわけである。生きているだけで(闘争にかんしては)負い目がある。この「原罪」を、花山は相手の攻撃を受けきることで解消しているのである。
この件は武蔵に対したときどうなるだろう。というのは、武蔵は武器をもっている。「もたざるもの」としての武蔵は(もちろんそうとはおもえないのだが)、この意味で花山薫という有利に対応できているものと考えられる。無傷のまま花山がこの構えに入るのは非常に珍しいとおもうのだが、これは対武蔵にかんしては「負い目」を感じなくてよい、ということかもしれない。ふだん抱えている生まれつきの強者という負い目が、武蔵が刀をもつことによって相殺されているのである。
そして、相手の攻撃を受けきることによって負い目を解消させるという方向性は、花山じしんの意識とか思想とか美学みたいなものも打ち消してしまうものだ。このとき花山は、攻撃そのものになる。拳のさきにすべてを集中させたこのねじりの状態も、考えてみればそういうことなのだ。このときの花山は、文字通り攻撃のための行動しかとっていない。防御も、というかみずからの生命の安定ということさえ考えていない。強者としての負い目をなくすため、という動機からこうした考え方になっていったことに加えて、そこに美を見出す価値観が、侠客立ちの物語によってほどこされている可能性は高い。ただ坊やを守ることだけに徹し、死んでもそれを続行する立ち姿の美しさ、カッコよさは、おそらくその、行為の純度によるものである。死んだ旅の博徒にはもはや恩義も思想も美学もない。ただ行為そのものとなってたち続けるのであり、花山ではそれが強さにかわるものとして解釈されている。刀をもつ武蔵に対しては、「原罪」に注意を払う必要はない。いってみれば、武蔵が刀をもつことによって、武蔵の素手の攻撃を受けきる状態が達成されていることになるのである。だからすぐに攻撃に移る。武蔵の素手の攻撃を受けきった状態である以上、間合いの変化も特にない。花山としては、いつものように、“攻撃そのもの”となって踏み出すだけなのである。
そして、武蔵が花山の意図を読むかどうかというのは、こういう心理がつかめるかどうかということである。問題は花山の発想が美学とか相手との関係性(におけるじぶんというもの)というような次元によるということである。武蔵にも美学はあるだろうが、とりあえず勝負をして勝とうとおもったら、美学をもたないことが美学になっているようなところがある。じぶんがこうあるべきだ、というようなことより先に相手を倒すことがくるばあいには、花山のような発想にはならない。才能があり、強者として生まれたのであれば、それを貪欲に利用して勝ちにいこうとするのが武蔵だろうし、むしろそっちのほうが一般的であるともいえるかもしれない。花山のばあいはとにかく「こうするのがカッコイイのだ」という美学が先行していて、それが幸いにも攻撃の純度を高める効果を発揮しており、拳に強さを宿している。侍と侠客では、わざわざ挿入されたエピソードのイメージもあって、近いものがありそうだが、身もふたもないくらいのリアリストである武蔵はむしろ花山のスタイルを笑うかもしれない。しかし、だとしたら、武蔵は花山の初撃をもらってしまう可能性がある。すべてを拳にのせた動作なのだと、あの極端なねじりを理解できない限りは、克己いわく子供だましとさえいえないようなものでしかないのであり、とっさには回避しきれないかもしれないのだ。もともと武蔵はバキばりに攻撃をもらってしまうひとだけど、花山の打撃は笑えないものがある。なにしろ、あれほど余裕綽々で鉄鋼弾の猛攻をうけていたスペックが、「なんてパンチだ・・・」と顔面蒼白になってしまうほどである。おそらく威力でいえば花山を超えるものは作中にもたくさんいる。しかし彼の場合はやはり握力に支えられたその拳のかたさである。現世にきてけっこうたつとはいっても、他のファイターに比べて打撃耐性が低いということも、依然としてあるだろう。なるべくならもらわないほうがいいのだ。
花山が武蔵の背後に闇をみたのは、ひとつには、たんじゅんになにをしてくるかわからないということがある。花山にとっては、相手がなにを仕掛けてくるかというのはどうでもいい。ただ全身でそれを受けきるだけであり、なにをしてくるのだとしても、じぶんはそれをやりきらなくてはならない。だとしたらなにが出てこようとかんけいない。彼にとって重要なのはおのれのありかたなのだ。しかし、だとするなら、花山が武蔵に闇をみたことに少しでも注意を向けるというのは、奇妙におもえる。要するに、このひとはなにをしてくるのか全然読めないなあと、読む気がないのにいっていることになるからである。つまり、ここではそれが闇であることが重要なのだ。初撃からどういう展開になるかわからないのでなんともいえないが、ここには一種の断絶が感じられる。花山はその闇について、狭い可能性も考えにいれているようだ。これは要するに、その闇が広さによるものではないということだ。武蔵の抱えているスケール、その茫漠さ、とらえがたさが、花山において闇と解釈されていると、そういうことではないのである。つまり、たんじゅんに「見えない」のである。これは「わからない」のとはちがう。現代人の、しかもちょっと無知な花山が武蔵のなんたるかをわからないのは自然なことだし、だいたい花山はそれがなんであれ受けきるわけだからそんなことを気にしない。それを、わずかな違和感とともに受け取って考えているということは、本来こちらに届いてしかるべきメッセージや暗号が、まったく感じられないということなのである。花山がじしん、見たように、そのファイトスタイルは自己完結型で、相手のなんたるかに無関係ではある。しかし彼は義のひとなので、バキとは闘争を通して友人関係になったし、克己ともバトル中から互いに敬意を払う存在になっていった。人間的魅力といえばそれまでだが、花山はみずからのすべてを開示し、相手のすべて受けきることにより、じぶんの美学を達成する。これが、結果としては深いコミュニケーションになっているのではないだろうか。
そういうものが花山の背景にあると考えたとき、では武蔵はどうだろう。武蔵は武蔵で、イメージ刀という技がある。これは明らかにコミュニケーション的な技術で、相手なしには練習することもできない技だし、相手によってそのかたちさえ変わってしまう。たとえば刀も武蔵も知らないピクルは、それをただの衝撃としてしか受け取ることができないので、細部は再現されていなかった。これはピクルだったから起こった現象であり、両者固有のものである。だから、花山が武蔵に感じた闇、不可視性は、そうした闘争の技術にかんすることではなく、おそらくその精神的傾向である。それは、まずはそのエゴイズムであり、相手を踏み台にのしあがる動機であり、そして孤独である。勝敗が生死につながる世界で生きてきた武蔵なのだから、基本的にはみずからをどう生かすかという方向に考えは傾いているはずだ。勝負のあとに生じる友情とか、くみかわす酒とかもない。極論をいえばじぶんのことしか考えていないものほどミクロの状況では強いのであり、義で動くものには旅の博徒のように死が待っている可能性がある。また、富と名声を求める動機も、花山のようなものからすればずいぶん黒いだろう。そしてやはり、花山とは、達人であるという意味でも、非現代人であるという意味でも異なっている、孤独を生み出すおそろしい溝である。宮本武蔵は「宮本武蔵」だから復活させられた。「宮本武蔵」という超ビッグネームの価値を宿すことを期待されて、クローンはつくられた。そしてげんに、ほとんどのファイターは、武蔵個人ではなく、「あの武蔵」として彼をあつかう。武蔵と会話をしても、たたかっても、彼らは武蔵と話したりたたかったりしているのではなく、それぞれが脳内でイメージとして抱える「あの武蔵」とそうしていたのであり、実物はそれを形容するものでしかなかったのである。だから彼らは武蔵の実力を見誤り、不覚をとってきた。これが武蔵の孤独だ。武蔵と話し、たたかいながら、じっさいは誰も武蔵のことを見ていないのである。
これが、本部によってつきつけられた。武蔵がこのことをどうとらえているのかはいまだによくわからないのだが、ものの道理として、武蔵は「あの武蔵」としてではなく、武蔵個人として、現世で戦功を積み立てていくはずであり、げんに彼はみずから庇護者である光成のもとを去って、いばらの道を進んでいる。花山がみた闇はこうした武蔵の決心のようなものかもしれない。
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