今週の刃牙道/第158話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第158話/純粋(きれ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内海警視総監の泣き落としと、友人だか知り合いだかライバルだか、烈海王の死を知ったことが重なり、花山薫が武蔵征伐をしない理由はなくなった。さらしを腹に巻く花山に木崎が話しかけている。基本的に花山のたたかいはいつものかっこうからはじまるので、そこから花山脱ぎをしてふんどしいっちょうになる。だから、ヤクザ的にはよく見るかたちなので、さらしを巻いたことはいままでなかった。煽りには「対武蔵に余念なく」と書かれていて、調べてみたら、腹を斬られたときに内臓が出ていかないようにするものなのだそうだ。防具なのである。ちょっと意外な感じもするが、こうしたところからも、なに考えてるのかよくわからない花山のほんとうのところが見えてくるかもしれない。

 

 

木崎と花山のつきあいは長い。木崎は、失礼かもしれないとずいぶん前置きをしてから、おそるおそる、そもそも宮本武蔵というのが誰か知っているかと訊ねる。外伝情報も含めると花山の腕力は13歳くらいですでに完成しており、握撃も可能だったし、無敵だったはずである。15歳の時点で日本最強の喧嘩師と呼ばれていたくらいだから、ふつうの喧嘩もそうとうしてきたはずだ。そんな青春時代だったので、はっきりいって勉強は得意ではない。外伝では国立大卒の木崎が家庭教師みたいなことをするエピソードもあるのである。そんなんだから、木崎だって心配だ。花山はいまからたたかう相手が誰だかわかっているのか?もしわからないとして、大丈夫なのか?確認せずにはおれないのだ。

花山に見られて木崎は一瞬びびったが、別ににらんだわけではないらしい。そして、宮本武蔵といえばそう、時代劇の、侍の、たしか、ササキ・・・などとぼそぼそという。なんだろう、まちがってはいないけど、なにか微妙にちがうような・・・。ダースベイダーのテーマ曲を「ダースベイダーのうた」と呼ぶような(うちのパートさん)。いや、まちがってないけど・・・。なんか、時代劇というともっと江戸の中期くらいの時代背景のような感じがある。

しかしまあ、いちおう知ってはいるらしい。木崎は花山の腕をつかんで、あってる、まちがいないという。しかし、まちがいないとしてもたりない。ほんとうにそれしか知らないのかという木崎に、なんでだと無邪気に花山はいう。これからたたかう相手のことなのだ。「最強」なんて言葉は武蔵以前にはなかった、剣豪中の剣豪、オールタイムランキング最強、ダントツの人斬り専門家、などと、木崎は武蔵を激賞である。最強ということでいえば、この世界には範馬勇次郎という存在がいる。ふつう、そこまで頭抜けた存在というのはいないので、この世界の人間は「最強」に免疫がある可能性がある。とはいえ、もしほんとうに武蔵が「最強」のオリジネイターだとしたら、勇次郎のようなありかたがそもそも存在可能だということを示してみせたのが武蔵だということになるかもしれない。

あせる木崎に花山はゆっくりといって聞かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「勝ちてぇから鍛える

 

 

勝ちてぇから調査(しら)べる

 

 

純粋(きれ)いじゃねぇ

 

 

烈海王をブッた斬った

警視庁を怖気付かせた

 

 

強ぇえんだろうな

 

 

それで十分だ

 

 

たまたま知った事・・・

 

 

それで十分だ

 

 

それ以上を知りたがると――

卑しくなる

 

 

「キレイ事」じゃなくなる」

 

 

 

 

 

 

 

有名な「鍛えることが女々しい」という花山のスタンスだが、記憶を探る限り、花山じしんがそのようなことをくちにしたことはない。これは柴千春がなぜじぶんが花山にあこがれるかという文脈で、そのありかたを形容するに際してつかった言い回しである。今回はじめて、その柴の見立てがたしかであったことが示されたことになる。

 

 

木崎はじぶんが少し浅はかだったことを悟る。このひとはそうひとだったのだし、だからこそじぶんはずっとついてきたのだと。相手の情報などどうでもいい。強いか弱いかさえ関係ないのだ。

 

 

ふんどしにさらしのうえにコートだけ羽織った花山が歌舞伎町を行く。向こうから警察官がふたり歩いてくるが、どうもこれは花山をサポートするために待機していたみたいだ。内海が、武蔵の位置を把握できるように派遣したのだろう。警察がヤクザに敬礼をする異様な光景だ。

武蔵は彼らの後方70メートルを歩いているという。70メートルというと近いようだが、歌舞伎町でこのくらい離れるとまず姿は見えない。警官たちの安全が確保できるぎりぎりの距離というところだろうか。

 

 

そうして、ついに武蔵と花山が互いを視認する。武蔵はふつうに帯刀して歩く危険人物だし、花山もものすごい巨躯のヤクザだ。異様な緊張感のためか、前もって告げてあったかのように、一般人たちが道をあけて舞台を用意する。

そこまでの武蔵の描写がないので、なにが「にしても」なのかわからないが、ひとめでなにもかも理解したようだ。悪魔的笑みを浮かべ、「面白いな現世(ここ)は」と、花山の登場を喜ぶのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

花山もメガネをとって臨戦態勢だ。いつも背中の侠客立ちを開くときはドラマチックに描かれるものだが、今回は、コートを羽織ったままでは拳を振りかぶれないし、いきなり出てくる感じだろうか。これはほんとうにわくわくしてきたぞ。

 

 

あんまりしゃべらない花山が、木崎のおかげでけっこうしゃべってくれたので、いろいろわかってきた。武蔵のことを訊ね、花山があまり知らないことがわかって、木崎は説明しようとする。しかし、そうやって調べたり、相手の戦法に応じるしかたで鍛えたりするのは「純粋(きれ)い」じゃない、という。つまり、花山は闘争に純粋さを、前提として求めている。強いということは、流れ込んできた情報、烈の死、警察の完敗だけで十分わかる。それ以上は卑しく、キレイ事ではないと。つまり花山は、こうした闘争観のようなものがある種のキレイ事であるということをわかっているのであり、じぶんからそれを求めているのである。

なぜそうするのかというと、ひとつには彼がヤクザであり、喧嘩師だからである。彼にとって闘争とは、どれほど周囲が準備したものであっても、喧嘩にほかならない。喧嘩としてたたかうから、花山は強い。喧嘩というのは、ふつういきなりはじまる。道で肩がぶつかったとか、居酒屋でとなりの席のやつが好きな球団の悪口をいっていたとか、顔を見たとか見ないとか、その瞬間まで知らなかったようなものと、あるとき突然はじまるものである。目があったと因縁をつけてきた相手を調査し、その戦法に応じて鍛錬を積むなどということはありえない。喧嘩として闘争を行う限りでは、今回のように時間があったり、トーナメントのように周囲が準備を重ねたものであったりしても、決してそれに対応してはならない。だが、見てわかる情報にはもちろん対応する。肩のぶつかった相手が胴体にはがねのよろいをつけていたとしたら、わたしたちはわざわざそこを叩こうとはせず、足か頭を狙うだろう。武蔵が刀を使う強者だということは、それまでのはなしからわかっている。だから、花山はとりあえずさらしを巻く。さらしはヤクザの常備品であり、花山にとっては日用品の範疇だからだ。でも、くさりかたびらを身につけたりはしない。そんなものはふつうないからだ。

花山はあくまで喧嘩として武蔵とたたかおうとする。闘争が喧嘩であるかぎり、花山にとっての闘争の純粋さが損なわれることはない。そして、それが一般論的にいってキレイ事だということも花山はわかっている。しかしそれでも彼は、むしろそこにとどまろうとする。それが花山の美学である。美学にしたがうものはバキ世界では強い傾向があるが、対武蔵のような死が待っているようなたたかいにおいては、美学は迷いのなさを生むだろう。とるべき行動は決まっている。だから選択肢がいくつか目の前にあらわれて、ためらってしまうなどということはない。その点では、現世においては死闘にかんして圧倒的に振り切っている武蔵と、花山は対等になりうる可能性がある。

 

 

それから、前回書いていてたまたま思いついたことだが、花山のファイトスタイルが行為そのものをとりだした抽象的なものであるという可能性である。バキは不等号による強さランキングみたいなものをつけにくい格闘漫画であるが、花山は特にその傾向が強い。その理由はこれまで精神性などで説明されてきたし、僕もうまくとらえることができないでいたが、花山はわたし個人の意志というものを相手の攻撃によって粉砕しているのではないかと、そのように前回考えたのである。侠客立ちのかっこよさは突き詰めれば「死んでも立っている」というところにある(と僕にはおもわれる)。ここでいう死は、ふるまいの進む方向や目的、衝動、反射などの意志が失われることを意味している。旅の博徒は、とめてもらった恩を返すために、生き残った子供を鐘に入れて背負い、守って逃げようとするが、斬られすぎて死んでしまう。しかし、彼は倒れない。そればかりか、背負っている鐘も落とさない。死んで意志を消失しながら、子供を守るという行為じたいは持続されているのである。いってみれば旅の博徒は、死ぬことにより、子供を守護するという行為それじたいになったのである。

花山はいつも相手の攻撃をもらいすぎるほどもらう。ガードをしないからである。これを、柴千春は「負い目のなさが勝ちを呼ぶ」と解釈した。これもまた精神性ということで回収可能なありようではあるが、これが、突き詰めると行為の純度を100パーセントにするということなのではないかと考えられるのだ。花山はあくまで喧嘩の文脈ですべての闘争を行う。つまり、いまこの瞬間、いきなりはじまったものとして、それに取り組む。その限りでは、じつは純粋さが損なわれることはない。しかし、これもたしか勇次郎がいっていたことで、花山じしんが語ったわけではなかったとおもうが、生まれつき強者であるという「負い目」がある。握力が生来のものだ、というスペック戦での巡査の証言もある。花山が強いのは生まれつきである。修練の結果そうなったわけではない。そこに負い目がある。原罪のようにつきまとうそれが、花山にガードをさせない。今回を見る限り、「喧嘩」の文脈にしたがう限り、それの純度が損なわれることはない。だったらガードをしたっていいし、今回でいえばさらしを巻いたっていい。さらしにかんしては、刃物とのたたかいが日常である花山にとってはふつうのことなのだろう。でもガードはまずすることがない。それは「つよく生まれた」という負い目があるからなのだ。もしそうだとするなら、武蔵は武器を持ち、花山は素手であるのだから、この原罪は解消される可能性もある。ひょっとするとそのことが花山にさらしを巻かせたのかもしれないし、あるいは来週以降、防御行動を見せる可能性もある。

負い目をなくすために花山は相手の攻撃をもらう。しかし、それと同時に、花山は「花山薫」という自意識じたいも破壊しているのではないかと、こういうことである。というより、ここまでくると、ここでいう「負い目」とは「花山薫」そのもののことなのではないか、ともおもわれてくる。彼は、闘争のフェアネスの観点からすると、存在しているだけで「罪」なのだ。多くのものは修行の結果、強いちからや技を身につけているのに、じぶんは最初からそれをもっている。原罪か、それともノブレス・オブリージュか、花山は相手の攻撃を受けることにより、その「罪な自分」を粉砕しているのである。そして、これは「侠客立ち」の物語とも響き合う。「旅の博徒」は、その立ち姿の威風で、侠客のなんたるかを示している。その姿にはもはや彼の意志や、欲望や、思想や美学さえ宿っていない。ただ行為だけが、それじたいとして実体化しているかのようにして、働いている。その境地に達したとき、花山の抱える原罪も、喧嘩を不純にしてしまう要素も、いっさい消失する。こんなたたかいかたをするものはほかに誰もいない。だから花山の強さをわたしたちは読むことができないのである。

 

 

武蔵はひとめ見て花山のなかになにかを感じ取ったようである。これまでも悪魔的笑みを浮かべたことはあったが、今回のはなにかもった嫌な感じがある。ちょっと興奮している感じがあるのだ。たぶんほんとに喜んでいる。これまでみたいなスタイルだと花山は瞬殺されてしまうかもしれないが、以上見たように、花山が刀に対して防御行動をとったとしても不自然ということはない。またピクルと同じく、武蔵の攻撃でも、筋肉や骨のかたさがそれを通さないという可能性もないではない。なにしろ原罪レベルで生まれつき強いひとだから。とにかくこれがどういう勝負になるのかはまったく予想できず、そしてこれほどどきどきする展開も久しぶりである。花山には死んでほしくないが、たぶんそういう展開にはならないんじゃないか、という気はする。とりあえず、木崎だけじゃなく、バキか克己あたりの解説係をもう少しよこしてケロ。