月組赤坂ACTシアター『瑠璃色の刻』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ミュージカル 『瑠璃色の刻(とき)』
作・演出/原田 諒

ヨーロッパ史に今も多くの謎を残すサン・ジェルマン伯爵。ある者は彼を不老不死の超人といい、またある者は稀代の魔術師だという。時空を超えて生きる錬金術師であり、比類なき予言者、そして正体不明の山師──。
ふとした事から謎多きその伯爵になりすました男は、瞬く間に時代の寵児となり、いつしか宮廷での立場は大きなものになっていく。しかし、やがて押し寄せる革命の渦に巻き込まれ…。18世紀フランスを舞台に、「サン・ジェルマン伯爵」として虚飾に生きた一人の男の数奇な生き様をドラマティックに描くミュージカル。

 

 

 

 

 

公式サイトより

 

 

 

 

 

月組TBS赤坂ACTシアター公演『瑠璃色の刻』観劇。2017年5月19日金曜日13時開演。

 

 

美弥るりか単独初主演!人事的なことはいろいろいわれているようだが、僕としてはあんなふうにでっかいポスター(と呼んでいいのかわからないが)が劇場外に向けて貼り出されているような事態がもううれしい。加えて今回の公演から、雪組から異動してきた月城かなとが参加している。このふたりの並びの美しさときたらそれはもう・・・。すごいですよ。

演出は原田諒ということで、雪組・望海風斗のアル・カポネで、カポネとエリオット・ネスが友人になるという超展開を書いた先生である(ちなみにこのときネスを演じたのが月城かなと)。この前の雪華抄ではショーも書けるということが判明したが、今回はまた芝居に戻ってきた。題材はサン・ジェルマン伯爵。ストーリーを見たときから見る直前まで、僕はこれをカリオストロ伯爵と勘違いしていた。だって時代も同じだしやってることも同じだし・・・。でも調べたら別人みたい。そのあたりの関係性はわからない。

 

サンジェルマンは錬金術師で占い師で、不老不死とされており、作中では4000年前から若さを保って生きている称している。が、美弥るりかが演じるのはサンジェルマン本人ではない。シモンという旅役者で、月城かなとのジャックとともに、かつてサンジェルマンが住んだとされるお城に侵入するところから物語ははじまる。サンジェルマンは60年前に旅に出てから戻っておらず、お城ではテオドールという従者が辛抱強く帰りを待っている。時代はフランス革命前夜、貧しい一座の暮らしにうんざりしていたシモンとジャックは、軽い気持ちでそこを抜け出し、お宝を狙って伝説的なサンジェルマンの城に侵入したのだ。賢者の石という、未来をのぞくことのできる石を発見したところで、肖像画を目撃、シモンがサンジェルマンに瓜二つだということを彼らは知る。60年前の記憶なのであやしいものだが、テオドールがそう信じて疑わないほど似ているのだ。そういうことなので、幸い年をとらないという設定もあることだし、シモンはサンジェルマンに、ジャックはテオドールになりすましてベルサイユに入り込み、マリー・アントワネットをはじめとした貴族を相手に稼ぎまくることになる。

ヒロイン格、といっても恋愛要素は特に見当たらないが、一座擁する名ダンサーのアデマールは海乃美月が演じ、1789のオランプと同じく、この時代の平民を演じることになった(よく似合う)。アデマールの感情はうまくくみとれなかったが、彼女はいなくなったシモンやジャックを案じており、ふとしたことでベルサイユで芝居をすることになったのをきっかけに、ジャックたちと再会することになる。もともと役者であるシモンたちは見事にサンジェルマンらを演じ、誰一人それを疑うものはいないのだが、ジャックはそのことに少し疲れ始める。思い出すのは貧乏ではあったが誠実で裏表のない時代であり、なんとなく迷いが生じ始めている。そんなところで彼は、第三身分出身で、平民にも唯一人気がある大臣ネッケルが、なんとなく鬱陶しい、くちうるさいというような理由で罷免され、軍隊が平民の動きを鎮圧するために出動しようとしている、という情報をうっかり入手してしまう。これを決定的なきっかけとしてジャックはテオドール役をおりようとするが、シモンはサンジェルマンをやめようとしない。当初、なぜそこまでシモンがサンジェルマンにこだわるのかわからなかったが、ここにはどうやら賢者の石の魔力が作用していたようである。サンジェルマンは貴族に必要とされている。はじめた以上最後までやらなければならない。シモンはサンジェルマンとして生きていくことを決めたのであり、もうそれをやめるつもりはないのだ。だがその貴族は、じぶんたち平民をひととしてみるものではなく、それどころかいまから攻撃をしようとしている。かくしてシモンとジャックは喧嘩別れ、そのままバスティーユ陥落を迎えることになるのであった。

 

 

シモンは最初、サンジェルマンのお城のお宝だけが目当てだったが、テオドールにそれを見られ、そしてサンジェルマン本人だと勘違いされたので、サンジェルマンを演じることでその場を乗り切った。その後、テオドールは城に残ったようなので、彼がサンジェルマンを演じ続けたのはじぶんの意志によるものである。はっきりってしまえば、その場で持ち帰ったお宝でじゅうぶんなのであり、いくらそうすればさらにもうけられるとしても、貴族のあいだに入り込んでまでしてサンジェルマンを演じるというのは、なかなかリスキーである。ここにはおそらく、平民としてのルサンチマンのようなものも含まれているだろう。彼らとしては、まぬけな貴族どもを騙して金を稼いでやる、くらいのつもりかもしれないが、実力や運ではどうしても超えることのできない貴族と平民の差を超えてやろうという気持ちがあったにちがいないのである。大臣にまでのしあがったネッケルでさえが、陰では(場合によっては直接)なりあがりものと揶揄されるような社会なのだ。階級というものは過去の為政者が資源を独占するために設定した人為的なものであって、ほんとうの人間というのは平等である、というのは宇月さん演じるロベスピエールのいっていたことだが、ともかく、事実としてそういう体制があり、体制の内側にいるままでは、この階級を超えることはできない。しかしサンジェルマンを詐称することでこれは乗り越えられる。では、この詐称のどのぶぶんが階級を無化しているのだろう。サンジェルマン本人が築いた信頼に基づく階級的なものを、詐称することによって身につけたというのであれば、シモンが名乗るのはサンジェルマンでなくてもいいことになる。貴族なら誰でもいいはずだ。とすると、サンジェルマン固有の超能力が、これをさせたことになる。つまり、占い、錬金術、若返り、不老不死といった要素のことだ。これらは、体制の外側にある。貴族とか平民とかいう分類で一定の秩序を保つシステムとは、無関係のものだ。サンジェルマンの存在は、実は質としては革命よりのものであって、サンジェルマンの前では貴族も平民も平等になってしまうのだ。

しかしそれも彼がほんとうに超能力者であり、さらにいえば、この貧しい社会においては、いまこの瞬間にパンが出てくるような能力でなければ意味がない。金をつくれてもそれに20年もかかるということでは、とりあえず今日の飯に困っている平民にはなんの価値もない。作中にも似た意味のセリフがある。貴族が毎夜パーティーやら狩りやらをするのは、それしかすることがないからだと。平民のように暮らしの心配をする必要がないのだ。同じことはサンジェルマンの宿す能力についてもいえる。占いとは未来のことであり、若返りは美を求めるものだ。しかし、今日を生き延びることが最優先の問題である貧しい平民に、未来のことや美のことがどれほど問題だろう。体制を超越したサンジェルマンは、しかし貴族の前でしかその技術を評価されることはないのだ。

 

 

シモンは、サンジェルマンとして貴族たちから必要とされることで、みずからの出自である平民より、自己実現のほうに動機を傾けはじめる。もちろん、そこには、賢者の石の魔力と、ルサンチマン的な歪んだものがかなり働いているとおもうが、ひとことでいえばそうだろう。ある意味では、サンジェルマンの存在じたいがそうであるように、この時点でシモンも、体制の外側に立っている。平民としてではなく、もちろん貴族としてでもなく、「わたし」として必要とされるそのことに価値を見出しているのである。体制においては、そこに属するものが必ず「平民」や「貴族」のような属性にふりわけられることになるが、サンジェルマンを構成する非現実的な要素はこの体制を解体して、個々人の価値観に戻してしまうものだ。けれども、実際のところ、平民はサンジェルマンを必要とはしない。たぶん、その価値を見出すこともないだろう。むしろ享楽の象徴のような存在になるにちがいない。だから、体制の外側にいたはずのサンジェルマンが、もし体制の内側に生きようとしたら、自然と貴族にこだわることになる。それはサンジェルマン(シモン)の問題というより、とことんやせ細った体制の問題だろう。こうして、シモンとジャックの対立が発生する。シモンは、貴族とか平民とか、そういう文脈ではなしていないのだが、それは結果として貴族側に立つことを意味してしまうのであり、それをジャックは認められないのだ。

 

 

サンジェルマンの魔術がどこまでほんとうのものかわからないが、賢者の石がシモンに語りかける場面を見ておもったのは、「サン・ジェルマン」というのは実在のある個人のことではなく、石を所持してそのように名乗っているその時代の誰かのことを指しているのではないか、ということだ。賢者の石を所持し、サンジェルマンの伝説を知ってそのように詐称するシモンのような男が、サンジェルマンそのものなのではないかと。ほとんどホラ話なのだが、4000年前から生きているというのは、ひとが現在に連続する文明を立ち上げて以来、というくらいの意味ではないかと考えられる。錬金術も占いも、取り組むひとは真剣になって研究してきたものだが、ついに学術として採用されることはなかった(統計学としての占いはともかくとして)。だが、これらの技術は「たとえば」であって、それは要するに体制の外側にある、あるいはあってほしいと人々が願う「魔法」のことなのだ。サンジェルマンが有史以来存在し続けているのだとして、それがつねに同一人物であるか、あるいはいまいったように「賢者の石を所持してそのように自称するもの」のことなのか、不老不死の能力以外にかんしては、どちらであってもちがいはない。というのは、4000年前に生きていたサンジェルマンと、いま目の前にいるサンジェルマンが同一人物であるということを証明することは、誰にもできないからである。もちろんDNA鑑定とか、そういう身もふたもない方法も現代ではないわけではないが、とりあえずフランス革命時の貴族たちには、それを否定することはできなかった。なぜなら、4000年前の彼を見たことのあるものなど存在しないからである。また、サンジェルマンが実在の個人であっても、あるいは概念のようなものであったとしても、不老不死であるということは揺らがない。もしサンジェルマンというものが、体制の外側にある魔法の総称なのだとしたら、受け継がれるたびに生は更新され続け、持ち手があらわれなくてもただそれを待つだけで、原理的に死のない存在であるのだから、たしかにそれは不老不死なのである。体制の外側にあるもの、という定義もまた廃れることのないものだ。それはつまり、いまわたしたちの把握しうるものの全体、その外側にあるもの、ということだからだ。外側にあって、わたしたちを相対化するもの、そういう存在なのだから、わたしたちが存在している以上、それも必ずありうるし、これは革命が秩序の内側に潜在するのとほぼ同義である。「サンジェルマン」はたしかに、この現代においても存在しているにちがいないのだ。

 

 

美弥るりかはそのヴィジュアルと芝居心でもって、この超越者としてのサンジェルマンのミステリアスさと、俗物の延長のようなユーモアを同居させていた。平民であることにとらわれる月城かなとも誠実さがよく出ていた。

エモーショナルな芝居を得意とする宇月さんはロベスピエール。作品によってこれほど大きくキャラクターのかわる人物もいないとおもうが、それはつまり、見るひとによってどのようにでも見えるということだ。後半では、例の粛清タイムがはじまって黒くなっていったが、それまでは基本的に正義のひととして演じられていたようにおもう。たしかに、これまでの文脈でいうと、革命までは、彼もまたサンジェルマン的な立ち位置だった。しかし、革命が成り、新しい秩序ができあがるとともに、彼自身が今度は体制側に含まれ、同時にあらたなサンジェルマンが別の場所で育まれることになる。そのあたりがくっきり演じわけられていたというようなわけではないが、やはり見事なもので、安心して観劇できる、非常にたよりになる上級生である。フィナーレのダンスもかっこよかった。